伝統宗教から抽出した秘教的教えで綴る黙示録解釈 (2)──死人の復活──

​​【1】文字通りの解釈の陥穽 ── 聖書における「死」の象徴性

​前回,〈死に至る道〉である〈外側の円〉に属している人々,すなわち私たちのことを,聖書ではときおり〈死にかけている人々〉と呼んだり,〈死人〉と呼んでいることを指摘しました。ここでもう一度〈二つの道〉の教えと,その別名ともいうべき語句を整理しておきましょう。​

〈命に至る道〉:人類の〈内側の円〉、〈神の国〉または〈命〉

​〈死に至る道〉:人類の〈外側の円〉:〈この世の国〉または〈死〉

​今回はこの〈死人〉とその〈復活〉について検討したいと思います。まずは具体例をあげましょう。ヨハネ福音書において,イエス・キリストは次のように説いています。​

よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて,わたしをつかわされた方を信じる者は,永遠の命を受け,またさばかれることがなく,死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが,神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ5章24~25)

​注意深く読むようにしましょう。「死んだ人たちが,神の子の声を聞く時」は,「今すでにきている」というのです。ところがこのイエス・キリストの時代に,文字通りの意味で死んだ人たち,すなわち文字通りの死体が,イエス・キリストの文字通りの声,すなわち肉声を聞くや,続々と棺からゾンビのようによみがえってきたということはありません。​したがって〈死んだ人〉や〈生きる〉という句はすべて,象徴的に解釈されなければならないのです。それこそが〈神の子の声を聞く〉という意味でもあるのでしょう。なお,このように,イエス・キリストの言葉に対する文字通りの解釈が誤りであり,象徴的な解釈こそが正しいということは,福音書においてはっきりと示されています。キリストはエルサレム神殿で両替商などを見つけた際に,「わたしの父の家を商売人の家とするな」と言ってその台をひっくりかえしたりしましたが,そこでユダヤ人から次のように問われます。​

そこで,ユダヤ人はイエスに言った,「こんなことをするからには,どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた,「この神殿をこわしたら,わたしは三日のうちに,それを起こすであろう」。そこで,ユダヤ人たちは言った,「この神殿を建てるのには,46年もかかっています。それだのに,あなたは三日のうちに,それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで,イエスが死人の中からよみがえったとき,弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して,聖書とイエスのこの言葉とを信じた。(ヨハネ2章20~22)

​私たちもまた,キリストの〈神殿〉という言葉を文字通りに受けとったユダヤ人のようにならず,聖書とキリストの言葉を象徴的に解した上で信じることとしましょう。

さて,〈死人〉という語句の検討に戻りましょう。ヨハネの黙示録では,サルデスの教会に属する人々に次のような衝撃的な警告をしています。

​あなたは生きているというのは名だけで,実は死んでいる。目をさましていて,死にかけている残りの者たちを力づけなさい。(ヨハネ黙示録3章1節)

​ここでは,キリストの福音を実践しているつもりになって,すでに人類の〈内側の円〉すなわち〈神の国〉に入り,「死から命に移っている」と自ら思い込んでいるけれども,実際にはまだ〈外側の円〉から出ておらず,したがって「実は死んでいる」ことを警告しているのです。​

【2】自己同一化の「眠り」と、自己想起の「目覚め」

​しかし同時に,私たちは〈死にかけている人々〉でありますが,〈死人〉になるほかないのではありません。〈死にかけている人々〉であることをやめることができるのです。すなわち〈復活〉することができるのです。エペソ人への手紙の中にあるとおりです。​

眠っている者よ,起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい。そうすれば,キリストがあなたを照らすであろう。(エペソ5章14節)​

この大変に力強く,しかもグルジェフの教え全体の要約のような聖句は,詳細な検討に値します。ここでは〈復活〉の真の意味を理解するために,その前に言及されている〈眠り〉と〈目覚め〉について検討したいと思います。先に引用したヨハネ黙示録におけるサルデスの教会に当てた聖句にも言及がありましたが,私たちは〈眠っている〉のであり,〈目覚める〉必要があるというのです。それが〈死人の中から立ち上がる〉ということの意味なのです。そして,この〈眠り〉の真の意味の解明と〈目覚め〉への闘いこそ,グルジェフの教えの中核の一つなのです。​

結論から言うと,グルジェフによれば,〈眠り〉とは〈自己同一化(self-identification)〉の状態にほかなりません。そして,〈自己同一化〉とは,私たちがどのようなことであれ何かを行っている時,考えている時,感じている時に,まさにその瞬間に,その行為や思考や感情や感覚の中に〈自己自身に対する認識〉が埋没し,これらの行為や思考などと一体化してしまい,それを行っている自己,考えている自己,感じている自己に気づいていない状態を指しています。​そして,〈目覚め〉とは,これと反対の状態,すなわち,何かを行っているその瞬間に自己に気づいていること,つまり行っている自己,考えている自己,感じている自己を意識している状態,すなわち〈自己想起(self-remembering)〉の状態を指しています。そして〈自己想起〉はまた,行っている行為や観察している事象そのものと自己の二つを同時に認識している状態であることから,〈注意の分割(double attention)〉とも呼ばれています。​

自己想起は困難です。自己想起の定義を知ることは簡単ですし,静かな環境で坐って瞑想のように自己想起することは比較的簡単です。もっとも,それさえ雑念に妨げられてしまいますが。しかし,自己想起とは,自己を想起した状態で生きること,それを生活のただ中で実践することなのです。

グルジェフは自らが開設したフランスのプリオーレにあった「人間の調和的発展研究所」に掲げた格言に次のように記しています。

​いつでも,どこにおいても,自己を思い起こしなさい。(G.I.グルジェフ著前田樹子訳「グルジェフ・弟子たちに語る」めるくまーる社389頁)

​これは困難です。試みるほどにはっきりしてきます。私が自己想起について知ったのは今から20年以上も前のことであり,それ以来何度も自己想起を試みてきましたが,今こうして自己想起の文章を書いている時でさえ,書くことに自己同一化したまま書き続けてしまっていることにときおりは気づいています。つまり眠りながら書いてしまっているのです。このことを自覚し,自己を想起しようと試みるのですが,何度も注意が逸れてしまいます。​もっともグルジェフは,弟子であったウスペンスキーが「自己想起の最初の試みから分かったことは、私たちは決して自己想起をしていないという事実だけでした」と答えたときに,次のように教えています。​

君は何を期待しているのだね。これは重要な認識だ。これを知っている人は〔彼はこの言葉を強調した〕,すでに多くのことを知っているのだ。問題は誰もこれを知らないということだ。もし誰かに自分自身を想起することができるかどうか聞いてみれば,もちろんできると答えるだろう。もし君が彼に,あなたは自分を想起することはできないと言えば,彼は怒るかそれとも君を全くの馬鹿だと思うだろう。人生全体,人間存在全体,人間の盲目性全体はこれに基づいているのだ。人は自分は自分を想起することができないということを本当に知れば,彼はそれだけで彼の存在(ビーイング)の理解に近づいているのだ。(P.D.ウスペンスキー著,浅井雅志訳「奇蹟を求めて」平河出版社193~194頁)

​もし自己想起についてグルジェフの教えの解説書などから情報の断片を得て,自分は自己想起できていると考えていたり,自己想起は他の伝統宗教の修行,例えば上座部仏教の正念の瞑想と全く同じであると考えている人がいれば,一つの挑戦として,グルジェフが繰り返し勧めていた自己想起のエクササイズである「特定の時間に自己を想起する」という課題を実践することをお勧めします。つまり,例えば午前10時,午後3時など,自分が決めたいくつかの時間きっかりに,たとえ生活において何をしていたとしても,自己を想起するのです。これを誠実に実行すれば,いかに生活の様々な事柄と同一化していて,自己を全く想起しておらず,課題を覚えておくことができず,つまりは眠ってしまっているかを誰でも実感できると思います。単に気が向いた時や自己想起についてふと思い出した時にだけ自己想起するのは全く無益であるとグルジェフは言っています。つまり,機械的に,無意識的に自己を想起するのは無益であり,意図的に,意志的に,自己を想起しなければならないのです。​

【3】街を行き交う「眠れる人々」

​〈眠り〉とは〈自己同一化〉の状態であると先に書きましたが,眠りとは自己同一化の状態を指した隠喩であると理解するのは全く間違っています。なぜなら,強力な〈自己想起〉の状態にある時には,すなわち完全に〈目覚めている〉時には,人々が〈眠っている〉ことを直接認知できるとウスペンスキーは記しているからです。ウスペンスキーが自ら体験したことを報告していますので,ご紹介しましょう。

​私はトロイツキー通りを歩いていたが,突然こちらに歩いてくる人が眠っているのを見たのである。まちがいはなかった。彼は目こそ開いていたが,その顔を雲のようによぎる夢に明らかにひたりきって歩いていた。そのときある考えが浮かんだ。すなわち,もし十分に彼を見続けることができれば彼の夢が,つまり彼が夢の中で見ているものがわかるのではないかと。しかし彼は通り過ぎていった。彼の後にまた別の眠れる人がやってきた。眠れるイズヴォースチク(馬車)は二人の眠れる人を乗せて通り過ぎていった。突然私は,自分が『眠れる森の美女』の王子の立場にいるのに気づいた。まわりの誰も彼も眠っていた。それは疑いようのないほど確かな感覚であった。普段見ていない多くのものを我々の目はみることができるというのがいかなる意味であるかを悟った。この感覚は数分間続いた。翌日も,非常に弱くではあるが,その感覚はくり返し現れた。すぐに私は,散漫にならず,つまりまわりのどんなものごとにも注意をとらわれずに十分なエネルギーを保っている限り,自己を想起しようと努めることによってこの感覚を強化し,永続させることができるということに気づいた。注意が散漫なとき,私は〈眠れる人々〉を見るのをやめていた。私自身も明らかに眠っていたからである。私は仲間の数人の者にだけこの実験の話をした。するとその内の二人も自己想起に努めたときに似たような経験をしていたのである。(前掲書413~414頁)​

キリスト教は全人類に福音のことばを述べ伝えましたが,福音書や使徒たちの書簡にはいったい何が説かれているかといえば,私たちはこの〈眠り〉から〈目覚めなければならない〉ことが,繰り返し繰り返し説かれているのです。これこそ福音書のメッセージの中核なのです。福音書によれば,キリストは,私たちがまさに検討しようとしている終末の教えを説いた後で,全人類に向けて次のように説いたとされています。​

気をつけて,目をさましていなさい。その時がいつであるかは,あなたがたにはわからないからである。それはちょうど,旅に立つ人が家を出るに当たり,その僕たちに,それぞれの仕事を割り当てて責任をもたせ,門番には目をさましておれと,命じるようなものである。だから,目をさましていなさい。いつ,家の主人が帰って来るのか,夕方か,夜中か,にわとりの鳴くころか,明け方か,わからないからである。あるいは急に帰ってきて,あなたがたの眠っているところを見つけるかもしれない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は,すべての人々に言うのである。(マルコ13章33~37節)​

イエス・キリストはこの短い教えの中で,実に三度も「目をさましていなさい」と呼びかけているのです。

​【4】自然本性的な「目覚め」の喪失と「復活」

​しかしながら,グルジェフは,私たちは自らが眠っているということを,すなわち常に〈自己同一化〉の精神状態にあり,〈目を覚ましたままの眠り〉に陥ってしまっていることを全く自覚していないため,福音書の教えを正しく理解できていないとして,次のように指摘しています。

​眠りという考えそのものには目新しいものは何もない。人々はほぼ天地開闢以来この方,お前たちは眠っており,目を覚まさなくてはならないと言われ続けている。何度このことが,たとえば福音書の中で言われているだろう。〈目覚めよ〉〈見よ〉〈眠るな〉等々。キリストの弟子たちでさえ,最後にキリストがゲッセマネの庭で祈っているときに眠ってしまったのだ。すべてはその中に示されている。しかし人間はこれを理解しているだろうか?人々はこれを単に言葉の一形式,一つの表現,一つの隠喩と考えてしまう。それを文字通りに受けとらなければならない必要性を全く理解していないのだ。そしてその理由もすぐわかる。つまり,これを文字通りに理解するためには,少しでも目覚めているか,少なくとも目覚めようと努力していることが必要なのだ。これは真面目な話だが,私は何度か,なぜ福音書は眠りについて何も語っていないのかと聞かれたことがある。ほとんどページごとに言及されているにもかかわらずだ。このことは人々が福音書を眠りながら読んでいることをはっきり示している。深く眠り,夢にひたりきっている限り,自分が眠っているという事実に思い及ぶことさえできない。もし自分が眠っているということを自覚できたなら,人間は目覚めるだろう。これが現状なのだ。人間は,この眠りのために自分がいかほどのものを失っているか全然わかっていない。すでに言ったように,人間は現在の身体のままで,つまり自然につくられたままの状態で自己意識的な存在でありうる。人間はそのようにつくられ,そのように生まれるのだ。ところが,人間は眠れる人々の間に生まれ落ちており,そこで当然,自分自身を意識しはじめるべきまさにそのときに,彼らの間で眠りこんでしまうのだ。たとえば,子供の年上の人たちに対する無意識的模倣,意識的・無意識的暗示,〈教育〉と呼ばれているものなど,すべてがこれに手をかしている。目覚めようとする子供のあらゆる試みはたちまち中断される。それは当然なのだ。そして眠りを誘う無数の習癖や習慣が蓄積されてしまった後では,目覚めるためには莫大な努力と多大な援助が必要となる。そして,それはめったに実現しない。ほとんどの場合,人間は子供のときにすでに目覚める可能性を失い,そして眠ったまま生を送り,眠ったまま死ぬのだ。しかも,多くの人が肉体的死のはるか以前に死んでしまう。(P.D.ウスペンスキー著,浅井雅志訳「奇蹟を求めて」平河出版社233~234頁)​

ここでまず注目しなければならないのは,「人間は現在の身体のままで,つまり自然につくられたままの状態で自己意識的な存在でありうる。人間はそのようにつくられ,そのように生まれるのだ。」という点です。この教えを〈二つの道〉の教えと結びつけてみる必要があります。​そうすると,人間は,自然的には,本来すべての人が〈命に至る道〉を行くべき本性を与えられているということになるでしょう。しかしながら,不幸にも,私たちは,「子供のときにすでに目覚める可能性を失」ってしまうのです。この自然本性的な目覚めの可能性を喪失した時点こそ〈二つの道〉の〈分かれ道〉であり,自然に目覚める可能性を失った私たちは,この分岐点をいわば〈左折〉し,〈死に至る道〉を進み,地下の領域を目指して流れ始めるのです。まさに私たちは〈死にかけている人々〉なのです。​

しかし,自然に目覚める可能性を喪失して〈死に至る道〉に沿って進み始めてしまった後でも,人為的な手段によって目覚めることができれば,すなわち教えによって自己を想起できるようになれば,〈命に至る道〉,すなわち〈死人〉たちの群れの中から立ち上がることができるのです。これこそ〈死〉からのよみがえり,すなわち〈復活〉なのです。​

【5】東洋の秘教にみる「生きている死体」

​グルジェフは,目覚める可能性を最終的に失ってしまった人々,すなわち人為的な教えという手段によっても目覚めることができないことが確定してしまった人々を,肉体的には生きてはいるが〈すでに死んだ人々〉と呼んでいることにも注意してください。これは衝撃的な教えでしょう。しかし,このような教えもまた,グルジェフだけの,そして秘教的キリスト教だけの教えではありません。

チベット仏教ニンマ派のソギャル・リンポチェは,自らの師でありニンマ派の著名なラマであったトゥジョム・リンポチェが次のように語ったと伝えています。​

わが師(宝月註:ジャムヤン・キンツェ・チュキ・ロドゥのこと。ダライ・ラマ14世の師であり,宗派を超えて尊崇を集めたラマでした。)の死後,わたしは現代のもっとも偉大な瞑想の師,神秘家,行者の一人,ドゥジョム・リンポチェと親交をむすぶ機会に恵まれた。あるとき彼は妻と二人でフランスをドライブしていた。道の両側にはすばらしい田園風景が広がっている。車は大きな墓地のかたわらを通りかかった。そこはペンキがきれいに塗りかえられ,花で飾られていた。妻が言った。「リンポチェ,ごらんなさい。西洋では何もかもがきちんときれいにされていること。遺体を葬るような場所にも塵ひとつないくらい。東洋では人の住んでいる家でもこんなふうにはいかないわ」リンポチェは答えた。「ああ,そう,まったくだ。これが文明国というものだよ。死体にもこんなに立派な家がある。だが,おまえは気がつかなかったかい。ここでは生きている死体だってとてもすばらしい家をもっているんだよ」(ソギャル・リンポチェ著大迫正弘・三浦順子訳「チベットの生と死の書」講談社38,39頁)​

このように,〈復活〉の可能性を最終的に失ってしまった〈すでに死んだ人々〉が存在するという秘められた教えは,洋の東西を問わず存在しているのです。では,この〈すでに死んだ人々〉とは本当は何を意味しているでしょうか。次回はこの問題を検討したいと思います。

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