【1】終末予言への忌避感とその真の原因 ──「進歩の幻想」と「無常」の忘却
本ページにおいては、先に哲学的論考として「kopairosまたは気について」を公開し、未来が既に存在していることを詳細に論じました。しかし、未来が既に存在しているとなると、そこからいくつもの結論、また探求の対象が浮上してきます。その一つが、「予言」です。未来が既に存在している以上、「予言」の存在の可能性は十分に成り立つことになります。そこで私たちは,予言が存在する可能性を認めることから、諸宗教の説く最も衝撃的な教えの一つである、〈世の終わり〉という恐るべき予言を真剣に検討することが必要になってきます。
ただし、終末予言という教えに正しく接近するためには,非常に多くの宗教的,歴史的な情報を検討することも、同時に必要です。ここでまず最初に確認しておきたいのは,終末予言という教えは特定の宗教にだけあるのではなく,世界宗教すべてにみられる、極めて普遍的な、いわば「ありふれた」教えであるということです。キリスト教,イスラム教,仏教,ヒンドゥー教の全てに終末予言の教えはみられるのです。そして,どの宗教も,未来に極めて偉大な人物が出現して,人類の在り方を善なるものへと一変させると予言していることも完全に一致しています。ただし,その人物の名は,再臨のキリスト,マフディー(イスラム教シーア派),ラウドラ・チャクリン(カーラチャクラタントラ),カルキ・ヴィシュヌヤシャス(マハーバーラタ)と別々ではありますが。そして,彼が現れる前に,人類全体に恐ろしい災難が降りかかるということ,すなわち人類の堕落が,巨大な天変地異が,そして善と悪との間における最終戦争が起こるということも,諸宗教でほぼ一致していると言えます。
この終末の予言は,ありとあらゆるカルト宗教が人々をだますために利用してきたものであり,現代では極めて悪名高いものとさえ言えるでしょう。しかし,たとえカルト宗教が終末予言の教えや最終戦争の教えを悪用してきたからと言って,これらの教えを排除すべきだということには絶対になりません。なぜなら,終末の教えは伝統宗教の本質的な一部を構成しており,正統な信仰に欠かすことのできない必須の要素となっているからです。
現代人にとって終末予言の教えが過度に刺激的な教えと受け止められてしまうのは,二つの原因があるように思います。
第一の原因は,私たちは自らが生み出した現代文明について過信していることが挙げられます。つまり,私たちは現代文明は無限に発展するという全然根拠のない説を頭から信じ込んでいるために,それもまた無常なるものであることを理解していないのです。だからこそ,現代文明の成果が全て失われてしまうと言われると,それは極めて異常なことであり,全く想定外のことで,非常に驚くべきものに受け止められてしまうのです。しかしそのような驚きをもって終末予言が受け止められてしまうということこそ,私たちが現代文明を過信している証拠なのです。
第二の原因は,私たちは,自分自身もまた無常であることを忘れているという点にあります。つまり私たちは一人残らず死刑を宣告された死刑囚なのであり,しかも死刑執行の時期は全く不確かで,今日にも執行される可能性があることを忘れているのです。だからこそ,大規模な災害や最終戦争で極めて多くの人々が死ぬであろうことが予言されていると聞くと,私たちは死という存在を急に思い出して,過度に恐れてしまうのです。しかし実際は,私たちはみな死刑執行を今か今かと待っている身なのであり,屠られる順番を待つ家畜のようであるのです。その順番は今日かもしれません。今日は死ぬことはない,ということは誰にも言えないのです。このことを理解していれば,どのように死ぬのかということ,すなわち病気か,事故か,自然災害か,あるいは戦争かは,それほど大きな問題ではないということになります。というのも,私たちはみな,遅かれ早かれ何らかの原因で絶対に死ななければならないからです。このように,無常の教えを本当に理解すればするほど,終末予言に対する過剰な反応は薄れていくのです。そして終末予言の教えの持つ本来の意義は,私たちも,私たちの文明も,決して死を免れないという意味で〈無常観〉または〈モメント・モリ〉としての役割を果たし,しかも〈主の日〉と呼ばれる苦難の時代が近づいていることから,私たちは急がなければならないことを常に思い起こさせてくれることに一つの基本的な意義があるのです。
こうして,まずは終末の教えに冷静に取り組む前提となる無常観という心の態度を持つようにしたいと思います。そのために,私たち日本人の人口に膾炙している平家物語の序文を,それが現代文明,あるいはこれから頻繁に用いることになる〈この世の国〉という〈王朝〉の崩壊という無常を意味しているものととらえ直した上で,心からの感情を込めて読みたいと思います。このブログをお読みいただいている人も是非,皆様なりの現代文明を象徴するイメージを心に浮かべながら,読んでみてください。
祗園精舎の鐘の声 諸行無常に響あり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
猛き者もついには滅ぶ ひとえに風の前の塵に同じ
終末の到来を告げる鐘の声を心に聴いた上で、終末予言という教えに対する正しい理解を探求することとしましょう。そうすれば,終末予言の教えは,現代文明が生み出すあらゆる産物への内なる無執着を生み出す格好の材料となると思われるからです。この内なる無執着こそ,いかなる伝統宗教に基づくものであっても、〈正しい道〉を歩むに当たって、最も肝要な秘訣なのです。そして、終末予言の教えを心から信ずる者は,内なる無執着を強めるとともに,現代文明を心から信じ愛する大多数の人々から、内面において離脱していくことになります。いわば内なる〈よそ者〉となっていくのです。もっとも私たちは,預言者ムハンマドの教えにあるとおり,〈よそ者〉のようでなければならないのです。
アブド・アッラー・ブン・ウマルによると,或るとき神の使徒は彼の肩に手を置き「この世では,よそ者或いは旅人のようであれ」と言った。(牧野信也訳「ハディース イスラームの伝承集成 下巻」中央公論社115頁)
〈正しい道〉を歩む者は,とりわけ在俗のまま〈道〉を歩む者は,外面においては親族と睦みあったり,社会的義務を果たしていかければなりませんが,内面においては〈よそ者〉であり〈旅人〉でなければならないのです。
【2】人類を分かつ〈二つの道〉と〈二つの円〉──秘教的文明と秘教外的文明
では、終末予言の教えに対する正しいアプローチは何から始まるのでしょうか。私の理解では,それは〈二つの道〉の教えという、最も基本となる伝統的教えから始まると考えます。
〈二つの道〉の教えとは,全ての人類は,〈死〉に至る〈第1の道〉に属するか,〈命〉に至る〈第2の道〉のいずれかに属しているのであり,そして私たちの大半は不幸にも,〈死〉に至る〈第1の道〉に属しているというものです。旧約聖書のエレミヤ書にはこのようにあります。
「またこの民に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く』」(エレミヤ書21章8節)
さらに旧約聖書の箴言には、命の道と死の道について、次のように説明しています。
「正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る。」(箴言12章28節)
そして、この二つの道について有名なキリストの教えがあります。
「狭い門からはいりなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。いのちに至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7章13節から14節)
さらに、この二つの道に関連して、預言者ムハンマドはかつて次のように教えたと伝えられています。
アブー・フライラによると,預言者は言った。「復活の日,最初に呼び出されるのはアーダムで,次にその子孫が現われると,神は『これはお前たちの祖先アーダムだ』と言われる。それから神がアーダムに向かって『お前の子孫のうちから,地獄行きの者を引出せ』とお命じになるとき,彼が『主よ,何人引出したらよいでしょうか』と尋ねると,アッラーは『百人ごとに九十九人を引出せ』と答えられる」と。これを聞いて信徒達が「神の使徒よ,我々のうちから百人ごとに九十九人も引出されるならば,何人残るでしょうか」と言ったとき,彼は「わたしの民は他の多くの民の間で,黒い牛の毛皮の中の一本の白い毛のようなものだ」と応えた。(牧野信也訳「ハディース イスラームの伝承集成 下巻」中央公論社137,138頁)
そして,〈正しい道〉とは,この〈黒い毛〉で構成された〈死の道〉から,〈白い毛〉で構成された〈命の道〉に移るためのものなのです。
「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死から命へ移ってきたことを、知っています。愛さない者は、死のうちにとどまっています。」(ヨハネの手紙一3章14節)
そして,このように人類全体が〈二つの道〉に分かれて属することから,人類が生み出した様々な文化的なもの,すなわち書物,芸術作品,生活様式,社会組織や,さらに思想,哲学,芸術などといったものの全ては,それがどちらの道に属している人々によって生み出されたかによって,二種類に分けることができることになります。すなわち,〈命に至る道〉に属している人々によって生み出された文化と,〈死に至る道〉に属している人々によって生み出された文化の二つです。そして,最初の文化の集合について、通常は「ロシアの神秘主義者」と紹介される19世紀から20世紀初頭にかけて巨大な足跡を残したゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフの教えによれば、〈秘教的(エソテリック)文明〉と呼び,後の文化の集合を〈秘教外的(エクソテリック)文明〉と呼ぶというのです。しかし現代では、〈秘教的(エソテリック)〉という言葉が何を意味しているかについては,誰でも好きなだけ妄想することができてしまいます。しかし、今のところはただ一つの意味で,すなわちエソテリックという言葉の元来の意味,すなわち〈内なるもの〉という意味で使用したいと思います。この言葉はもともと古代ギリシャにおいて神秘哲学を教えたピュタゴラスが用いた「エソテリコイ(内なる人)」という言葉から来ていて,ピュタゴラス自身による直接の教えに参入することを許された心境の進んだ〈内陣の人々〉のことを指していました。
さて志願者たち(宝月註:ピュタゴラスの弟子志願者のこと)は,生活態度やその他の素行から〔かの人の〕教説にあずかる資格があると判定されたならば,5年間の沈黙の後で(宝月註:志願者に課された沈黙行のこと)内輪弟子(エソーテリコイ)になって,垂れ幕の内側で目の当たりにピタゴラスを見ながら聴講した。それ以前は幕の外にいて,けっして彼を見ることができず,声だけを聴いて彼の教えにあずかった。彼らはこのようにして長期にわたり各自の性格を吟味されたわけである。(イアンブリコス著,水地宗明訳「ピタゴラス的生き方」京都大学学術出版会76頁)
それと同じように,人類全体を模式的に二つの同心円に分けて,〈命に至る道〉に入った人々を人類の〈内側の円〉に属するものとし,彼らから発出される様々な文化の集合を,〈内側の円〉から発するものという意味で〈秘教的(エソテリック)文明〉と呼び,一方で,〈死に至る道〉に属する人々を,〈内側の円〉の外にある〈外側の円〉に属するものとし,〈外側の円〉で作成される様々な文化の集合を,外側のものという意味で〈秘教外的(エクソテリック)文明〉と呼ぶのです。そして,〈正しい道〉とは,まさに〈外側の円〉から〈内側の円〉に入るための〈門〉,すなわち法門のことなのです。なお,この〈秘教的文明〉と〈秘教外的文明〉は,仏教やヒンドゥー教の伝統では,端的に〈法(ダルマ)〉と〈非法(アダルマ)〉と呼ばれているものに相当するといえるでしょう。
そして,秘教思想では,〈内側の円〉にいる人々は,私たちには知られざるある組織を形成している,と言われています。そして,〈内側の円〉の最奥,中心には,イスラム教神秘主義であるスーフィーの伝統用語に従えば,〈クトゥブ(中軸の意)〉と言われる、その時代時代における最も偉大な聖者がいるといわれています。スーフィーの聖者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの言葉を引用しましょう。
今わしのこの手がすることも,実は知性の影の働きでするのである。なぜなら叡知の影が手を覆っているからだ。もちろん,知性に感覚的な影はない。が,影ならぬ影がある。ちょうど,味というものには存在ならぬ存在があるように。もし知性の影が人間にさしかけていなかったなら,一切の肢体は麻痺状態に陥ってしまうであろう。手はしっかりとものをつかむことができず,足は真っ直ぐ道を歩くことができず,目は何も見ることができず,耳はどんな音も歪んでしか聞き取らないだろう。知性の影の中にあればこそ,すべての肢体はそれぞれの機能を正確に,立派に,適切に遂行するのである。本当はこれら全ての働きは知性に由来するのであって,手足は単にその道具にすぎない。同じく(この世界にも)一人の偉い人がいる。つまりその時代時代の神の代理者(全世界の枢軸をなすほどの精神的偉人)のことだ。この人は宇宙的知性のような位置にあって,個々人の叡知はこの人の手足のようなもの。彼らが何をしても,みんなこの人の影の働きである。誰かから何か歪んだことが出てくるなら,それはかの宇宙的知性がその人の上に影を落とさなくなったからである。(井筒俊彦著作集11「ルーミー語録」中央公論社193頁)
〈神の代理人〉が影響を及ぼしているのは人類の〈内側の円〉に属する人々であり,また〈内側の円〉に入ろうとしている人々も,彼らが歪んだことをしないかぎり,何らかの影響が及んでいることになるのでしょう。そしてこのような秘教の教えに基づけば,福音書で〈神の国〉と呼び,これから取り組んでいくことになるヨハネの黙示録では〈キリストの国〉と呼んでいるものこそ,人類の〈内側の円〉の組織を指していると解することになります。そして,その組織ないし〈国〉では,私たちが所有する知識とは全く違った知識,はるかな古代から脈々と受け継がれてきたという隠された知識が今もなお保存されているとされています。そして,時に応じて,〈内側の円〉に属する人々が私たち〈外側の円〉の人々の前に現れて,新しい宗教や宗派といった〈秘教的文明〉をもたらして,人々に利益を与えるというのです。例えば,神秘主義的な傾向の極めて強いギリシャ哲学の一派であるネオプラトニズムの祖であるアンモニウス・サッカス,中国禅の開祖とされる菩提達磨,チベット仏教カーギュ派の祖でナロパの師であるティロパ,スーフィーの聖者でメヴレヴィー教団の祖であるルーミーの師であるシャムスなどは,いずれもその出自が謎めいていて,偉大な宗派や学派を起こして人々の利益を図るため,人類の〈内側の円〉から〈外側の円〉に現れたと解することができるでしょう。グルジェフによれば,このような〈秘教的文明〉は,時や好ましい政治状況がそろうと出現すると言います。
ここで,このような秘教思想の鮮明な実例として, プラトンの著書である「ティマイオス」の中から,エジプトの神官がアテナイの賢者ソロンに告げたとされている言葉を引用したいと思います。
『おお,ソロンよ,ソロンよ,あなた方ギリシア人はいつでも子供だ。ギリシア人に老人というものはいない』と。そこでこれを聞いたソロンが『それはどういう意味ですか。何のことでしょうか』と,その神官は言ったそうだ。『というのは,あなた方は,古い言い伝えに基づく昔の説も,時を経て蒼古たる学知も,何一つとして心にとどめてはいないからである。(種山恭子他1名訳「プラトン全集12 ティマイオス クリティアス」岩波書店17ページ)
そしてこのエジプトの神官によれば,文明の滅亡はいろいろな形で多々あったことであり,その最大のものは火と水によって引き起こされるものであるが,エジプトは地理的な特徴から火と水の災害によって滅ぼされてしまうことがなく,そのためエジプトは知識を保存できたと述べた上で,次のとおり語っているのです。
あなた方のところのことでも,この土地のことでも,あるいはまた,われわれが聞き伝えて知っている他のどんなところのことでも,何か立派なこと,壮大なこと,あるいはほかに何か目立ったことが起こったとすれば,ことごとく,昔からこの土地で神殿の中に書き留められ,保存されて来たのだ。ところが,あなた方のところや他の国の人々のところでは,いましがた,文字その他都市国家の生活に必要なものすべてが整ったかと思うと,いつもちょうどその時に,決まった年数をおいて,あたかも疫病のように,再び天上から降り来る流れが奔流をなしてそこへ襲来し,あなた方のうち,ただ文盲で無教養なものだけを生き残らせるのである。その結果,あなた方はここにまた改めて,いわば子供に帰るのであって,このエジプトのことも,あなた方の地方のことも,およそ昔にあったことは何一つ知らないという状態に戻るのだ。(前掲書18頁)
このプラトンのティマイオスは,有名なアトランティス伝説の発生源でもあります。なお,最近,紀元前16世紀から17世紀に大規模な噴火を起こした地中海に浮かぶサントリーニ島に,非常に高度な文明の遺跡(あるアメリカのテレビ番組の特集を見ましたが,居住区には二階建ての家や下水道が完備されており,紀元前16世紀の遺跡とは到底思えないほど洗練されていました)が発見されており,これがティマイオスに述べられた〈アトランティス島〉である可能性もあるとのことでした。そうだとすれば,ここでエジプトの神官がソロンに告げたという歴史的知識は,当のギリシアでは失われていたにも関わらず,エジプトでは神官たちによって保存されていたことになるでしょう。
しかし,このような秘教に接近することは極めて困難なことであるということもまた,秘教思想が教えているところです。秘教思想においては,秘教を授かった人々,すなわち本物の〈秘儀参入者〉と呼ばれる人々は,極めて偉大な人物であり,単に私たち凡夫にとって接近しがたいというだけでなく,高徳な人物とされている人々でさえもそうなのだと言われています。ルーミーの言葉をご紹介したいと思います。
この世には,精神の目が開けて悟達の境に至った聖者が幾人もいる。そういう聖者をさらに越えて一段高い境地に達した別の聖者たちもいる。この第二の聖者たちを神の隠し人と呼ぶ。第一の聖者たちすら愁訴の声をあげて「おお主なる神よ,汝の隠し人の中のただ一人だけでもどうぞ我らに見せて下され」とお願いし続けている有様だ。だが,本当にその気にならない限り,また見てはならない限り,幾ら見る目を持っていても絶対に見ることはできない。いかがわしい酒場をうろつく道楽者(精神的完成度の低い普通のスーフィーたちを譬える)がどんなに女を探し求めたところで,女の方にその気がない限り誰にもつかまえられるものではない。誰にも姿を拝めるものではない。つまり,神の隠し人の方でその気にならない限り,誰もその姿を見たり近づきになったりできるはずがない,ということだ。(井筒俊彦著作集11「ルーミー語録」中央公論社163頁)
もっとも,注意すべきなのは,〈秘教的文明〉による文化的所産は,その起源だけが〈内側の円〉にあるのであり,いったん〈外側の円〉に投げ込まれてしまうと,すなわち私たちの普通の生活と混ざり合ってしまうと,しだいに日常生活が生み出した様々な概念や習慣などが混入してきて,そのために変質し,いわば腐敗してしまい,ついには私たちが生み出した〈秘教外的文明〉の文化と同等の質のものになってしまうのです。このことは諸宗教の世俗化の過程や東洋の伝統芸術の西欧化などにはっきりと見て取れます。言いかえれば,伝統宗教の生命力とは,それが〈秘教的文明〉としての本来の性質をどれだけ保持しているか,〈秘教外的文明〉とどの程度交じり合わずにいるのか,にかかっているということになります。この点についてルーミーは,イスラム諸王朝が採用しているイスラム法に関連して,次のように大胆に説いています。
お前がたも御存知のイスラーム法,あれも源は啓示だった。だが人間の思惟と感覚に混じり,いろいろ人間にひねくられているうちに本来の清純さはなくなってしまった。現に行われているイスラーム法は啓示のもともともっていた幽玄さとは似ても似つかぬものである。同様に,今ここ,トルート(コニヤの一地方)の地を都に向かって流れてゆくこの川。水源の泉のところでは,見るがいい,水がどんなに清らかで澄みきっていることか。ところがこの水が流れ流れて都に入って庭園を通り町町を過ぎ,町の住民の家々を通過していくうちに,人々が手を洗い,顔を洗い,足を洗い,身体を洗う。着物も洗えば絨毯も洗う。人が小便をする。馬や駱駝の糞尿が流れ込む。こういうものがみんな水に混じる。この川が都の向う側から流れ出てくるところを見るがいい。相変らず涸れた地を湿らせ,喉のかわいた人の渇きをいやし,砂漠をば緑にする。この水には様々な汚物が混入していて,もとの清純さはもうないのだということは,よほどしっかりした鑑識眼をそなえた人でなくては分らない。(井筒俊彦著作集11「ルーミー語録」中央公論社261頁)
【3】黙示録の秘教的解読 ──「着物を洗う者」と「犬ども」の真意
そしてこれらの人類の〈内側の円〉や〈外側の円〉に関する様々な教えをあらかじめ準備として十分に把握してこそ,ヨハネの黙示録における次のような謎の句について,正しい理解を求めて取り組むことができるようになるものと私は考えています。では、これから検討することになるヨハネの黙示録の読解の手始めとして,ヨハネの黙示録22章14節の聖句に取り組んでみましょう。
いのちの木に預かる特権を与えられ,また門をとおって都にはいるために,自分の着物を洗う者たちは,さいわいである。犬ども,まじないをする者,姦淫を行う者,人殺し,偶像を拝む者,また,偽りを好みかつこれを行う者はみな,外に出されている。(ヨハネ黙示録22章14,15節)。
ここで,〈いのちの木〉とは,バガヴァットギーターの15章にも説かれている天に根を張り,地に葉を広げるという菩提樹と同様のものであり,天的な,あるいは高次の生命の象徴です。〈門〉とは〈正しい道〉すなわち法門のことです。そして〈正しい道〉とあえて正しいと言うのは、〈誤った道〉もあるからなのです。
例えば、グルジェフによれば、中世カトリック教会の悪魔の教えや、極端に抑圧的な禁欲主義といった誤った教えで修行をし,その結果として自己の内部で〈結晶化〉すること、即ち誤った教えに基づく何らかの精神的傾向を内面において確固としたものに変容させ、肉体的な死に対してさえ抵抗できるような存在にしてしまう恐れがあるとされています。これが〈誤った道〉なのです。福音書は、この〈正しい道〉と、〈誤った道〉により内面において〈結晶化〉して〈不死〉となった人々について,次のように説いています。
よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに,門からではなく,ほかの所からのりこえて来る者は,盗人であり,強盗である。(ヨハネ10章)
ここでは人類の〈内側の円〉を〈羊の囲い〉に譬えています。そして,正しい法門によらずに修行して自らの内面において〈結晶化〉し,その結果特異な能力を得たものは,本来は正しい法門から〈結晶化〉への道を進むべき人々を惑わして誤った方法論に導く者たちであり,その者が伝統宗教の枠内にあるかのようなふりをしていればこっそりと〈神の羊〉をかすめ取る〈盗人〉であり,伝統宗教の枠を外れた新興宗教の教祖であれば〈強盗〉であると解されます。
次に〈都〉とは,人類の〈内側の円〉,特にその中心部のことです。そして,〈内側の円〉とは〈神の国〉なのであり,その国の中心こそ聖なる都,すなわち真の〈エルサレム〉なのです。このような理解によれば,キリストの次の宣教の言葉も極めて意義深く理解できるでしょう。
時は満ちた,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。(マルコ1章15節)
この宣教の言葉は,人類の〈外側の円〉に属する人々に対して,本来は極めて近寄りがたい〈内側の円〉に近づくための福音が説かれる時が来たことを宣言したものと解されます。
次に,〈着物〉とは,人間の精神が外部に現れたもの,すなわち外部的,肉体的行為を指しています。ヨハネ黙示録の別の箇所にあるとおりです。
わたしたちは喜び楽しみ,神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて,花嫁はその用意をしたからである。彼女は,光り輝く,汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は,聖徒たちの正しい行為である。(黙示録19章6節)
したがって〈着物を洗う〉とは,行為を清らかなものとすること,すなわち悪行を避けて清らかになることを意味しています。つまりこれは,仏教的にいえば,悪業障を消除せよ,ということになります。
そして,〈着物を洗う〉という句がそうであったように,〈犬ども〉〈姦淫を行う者〉などは,文字通りの解釈が完全に間違いであるとは言い切れませんが,はるかに重要な別の意味があると考えるべきでしょう。例えばグルジェフは,その後期の教えの中で,人間の異常な生活が原因で,すなわち〈秘教外的文明〉の種々なる有害な影響によって,人間の精神内部に結晶化してしまった人間本来の精神の発達を損ねる様々な固定観念,すなわち仏教的に言えば煩悩のことを,〈犬ども〉と呼んでいます。そうすると,黙示録の〈犬ども〉とは煩悩のままにある人々を指していると解されるのです。また,〈偶像を拝む者〉は,文字通りに解釈すると仏教やヒンドゥー教を批判しているようですが,その最も基本的な意味は,自らの手で作ったものを過信するという意味にあるのですから,最も妥当な解釈は,〈外側の円〉に属する人々が「自分の手で造ったもの」(黙示録9:20)を過信すること,すなわち〈秘教外的文明〉に信を置くことを意味しているというものでしょう。一方で,〈秘教的文明〉においては,その教えや文化は〈内側の円〉の中心から流出しているのであり,その中心は〈神〉または〈絶対〉と結びついているとされていることから,それら〈秘教的文明〉に属する諸々の文化的所産は〈人の手〉で作り出されたものではなく,したがって〈偶像〉ではないのです。そうすると,仏教やヒンドゥー教は,それが〈秘教的文明〉である限り,つまり〈法(ダルマ)〉である限り,〈人の手〉で作り出したものではなく,したがって〈偶像〉ではないのです。
次に,〈姦淫を行う者〉という言葉についてですが,これを理解するためには,人間存在の本来の目的という教えについて理解している必要があります。この点について,ルーミーは次のように説いています。
この世には決して忘れてはならないものがただ一つだけある。たとい他の一切を忘れても,その一事だけを忘れなければ,何も思いわずらうことはない。反対に,たとい他の一切を実行し,常に念頭に置いて忘れなくても,もしその一事を忘却するなら,何一つ為なかったのと同じことだ。例えば王様がそなたを或る特定の任務のまえにどこかの国にお遣わしになるとする。そなたはその国に出かけていって,ほかの仕事を百もするが,特にそのために派遣された当の仕事を怠ったとすれば,結局何一つ為なかったのと同じことになる。つまり人間は或る一つの仕事のためにこの世に生まれてくるのだ。それが彼の本当の目的だ。それなのに,もしその仕事をなおざりにするなら,何一つ為ないと同じことになる。(井筒俊彦著作集11「ルーミー語録」中央公論社261頁)
そして,人間がなすべきただ一つの仕事であり,人間の本当の目的とは何かといえば,象徴的に〈神との結婚〉であると聖書に説かれているのです。もっとも,この〈神との結婚〉ためには,その用意をしなければなりません。その用意とは,先ほど引用した黙示録19章6節にもあったように,〈光り輝く,汚れのない麻布の衣を着ること〉であり,つまり〈悪行の垢を除き清らかな善行をなすこと〉なのです。そして,この〈神との結婚〉,あるいはヒンドゥー教の教えで言うとすれば〈梵我一如〉の悟りを実現することと解してもよいと私は考えていますが,このような人間存在が宿す本来の高貴な運命の実現を目指して悪行の垢を除き,善行に励む者を,聖書ではときおり〈花嫁〉と呼んでいるのです。一方で〈神との結婚〉を果たすという人間の本性である高貴な運命を実現しようと目指さず,かえって財産や世俗の地位や快楽といったものとの合一を目指す者を,我々の〈許嫁〉であるところの〈神〉なる〈花婿〉を裏切る者であるから,〈姦淫を行う者〉と呼んでいるのです。そして,〈犬ども〉,〈偶像を拝む者〉,〈姦淫を行う者〉などが〈外に出されている〉という語句は,これらの者は人類の〈内側の円〉に入ることができず,〈外側の円〉に属していることを意味していると解されます。
いかがでしょうか。こうしてみてくるとヨハネ黙示録22章の一見不可解な謎の句は,実に意味深長な思想や教えを含んだものといえるのではないでしょうか。
【4】結論:〈この世の国〉の終焉とキリストの勝利 ──「死」の征服とは何か
そして,これらのことを踏まえれば,私が理解する終末の教えについての核心を説明することができるようになるでしょう。つまり私の見解では,伝統宗教が説く終末の教えとは,人類の二つのグループの間の闘争の最終的な結果として,人類の〈内側の円〉である〈神の国〉が,〈外側の円〉である〈この世の国〉に勝利するという予言なのです。
〈外側の円〉である〈この世の国〉が,〈内側の円〉である〈神の国〉の産物である〈秘教的文明〉としての〈福音〉を排除しようとして抗うことを,イエス・キリストは弟子たちに次のように説いています。
もしこの世があなたがたを憎むならば,あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを,知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら,この世は,あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし,あなたがたはこの世のものではない。かえって,わたしがあなたがたをこの世から選びだしたのである。だから,この世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ15章18,19節)
そして,〈この世の国〉すなわち〈外側の円〉は全て破壊され,人類は〈キリストの国〉である〈内側の円〉ただ一つに属することになるというのが,黙示録の予言の核心なのです。イエス・キリストは福音書において弟子たちに次のように力強く宣言しています。
あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ16章33節)
キリストが〈この世〉に勝利したという言葉の意味は,現在のように人類が〈二つの道〉に分かれて属するという状態が終焉することを指していると私は解しています。つまり,人類の全てが〈内側の円〉に属するようになり,〈死に至る道〉である〈外側の円〉は滅ぼされるのです。これこそ〈死〉の征服というヨハネ黙示録の,いやイエス・キリストの救済のわざ全体のメインテーマでもあります。すなわちここで言う〈死〉とは主として〈外側の円〉を意味しているのです。そして聖書では〈外側の円〉に属している人々,すなわち私たちのことを,ときおり〈死にかけている人々〉と呼んだり,端的に〈死人〉と呼んだりしているのです。この衝撃的な言葉の意味については,次回に詳細に検討することとしたいと思います。

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