Namo Āryamahāsāṃghikāya
聖なる大合誦部に帰依し奉る
第1章:大乗非仏説
多くの現代人にとって、大乗仏教に対する心からの信仰を生み出すために乗り越えなければならない主要な障害の一つに、「大乗仏教が拠り所としている種々の大乗経典は、歴史的存在である釈尊の言葉そのものではなく、ずっと後世になってから何者かによって創作されたものにすぎない」という批判があります。これこそ、大乗仏教は仏教ではないとする「大乗非仏説」の根拠です。
大乗非仏説は、大乗仏教が誕生した当初のインドから、封建時代の中国、さらには江戸・明治期の日本においても、あらゆる地域と時代を通じて主張され続けてきました。しかし、とりわけ科学的・歴史学的知見が発達した現代に生きる私たちに対して、大乗非仏説は強い破壊的な影響力を持っています。実際のところ、スリランカやタイにおける南伝仏教の実践者の中には、「大乗経典は後世の捏造であり、歴史的にも実践的にも無価値である」と断言する人々も存在します。一方で、現代においても、一部のチベット仏教の師たちのように、あくまでも大乗経典は歴史上の釈尊が説いた教えそのものであると主張する人々もいます。彼らはそのように確信することで大乗経典を深く尊重し、結果としてそこから多大な功徳を得ているのでしょう。したがって、大乗経典が歴史上の釈尊の直説であると一点の曇りもなく信じ切ることのできる人にとっては、本論は不要です。近代以前の人々の多くにとっても、同様に不要であったはずです。しかしながら、現代の客観的な知識体系の只中を生きる私たちにとっては、歴史学が突きつける事実に内心の動揺を覚えながら、ただ見て見ぬふりをしてやり過ごすことは、少なくとも誠実な態度とはいえないでしょう。疑念を抱えたままの脆い土台では、心からの帰依や、人生の変容さえもたらすような真剣な「実践(行)」が根付くことはないでしょう。したがって、現代において大乗仏教に信を置こうとする者は、まず歴史学が明らかにした事実を正面から受容し、「大乗経典という文献は、歴史上の釈尊が活躍した時代よりずっと後に編纂されたものである」と明確に認めることが必要です。ただし、私が本論で主張しようとするのは、「文献としての経典」が後世に出現した事実と、「大乗仏教の教え」そのものの起源は、全く別の問題である、ということなのです。
大乗経典が、釈尊在世の時代からずっと後に出現した文献であることの歴史学的、文献学的な証拠は莫大な量にのぼります。分かりやすい実例の一つが「仏像」の問題です。法華経などの多くの大乗経典には仏像の建立や礼拝を勧める記述が頻繁に登場します。しかし、歴史学的な事実として、仏像が初めて制作されたのは釈尊在世の時代(紀元前5〜6世紀頃)から遥か後、アレクサンドロス大王の東方遠征(紀元前4世紀)によってもたらされた古代ギリシア文明の影響が、数百年を経てインド北西部で結実した紀元1世紀頃であることが判明しています。もし大乗経典が歴史上の釈尊の言葉をそのまま記録したものならば、釈尊は五世紀も後にならなければ存在しない仏像を礼拝する功徳を聴衆に説いていたことになります。これは明らかに不合理です。ほかにも、大乗経典が歴史上な釈尊の言行録ではないことを裏付ける記述は無数に存在します。例えば、主要な大乗経典の多くは、説法の場(会座)に数え切れないほどの声聞や菩薩が集結したと描写します。しかし、大乗経典において頻繁に説法の舞台とされている霊鷲山は、インドに実在し、歴史上の釈尊も説法したとされてはいるものの、実際にはそれほど広大な山ではなく、大乗経典が説くような莫大な数の群衆を収容することは物理的に不可能です。そしてその事実は、実際の霊鷲山を見知っていた当時のインドの人々にとって、完全に自明であったはずなのです。
このように大乗経典は、大乗仏教の敵対者からすれば格好の批判材料となるような物理的、歴史的な不整合を、なぜあえて堂々と記述しているのでしょうか。私は、大乗経典の編纂に携わった大乗仏教の祖師たちは、そもそもこれらの経典は歴史上の釈尊の言行録ではないことを、あえて暗に示そうとしたのではないか、と考えています。つまり、これから開陳される教えが時空を超えた普遍的な真理であり、また同時に、妙法蓮華経如来神力品にもあるとおり、大乗経典を読誦する読誦者がいる場所こそが、まさに説法の道場であることを宣言するために、意図してこのような舞台装置を設計しているのではないか、と思われるのです。
第2章:大乗の教理と大乗経典との峻別
大乗非仏説を乗り越えるためには、必ず確立しなければならない重要な視点があります。それは、大乗仏教の教理と、大乗経典(文献)を明確に区別することです。
大乗仏教の教理そのものと、それを記述した経典とを一体のものとして扱い、「大乗仏教の教理の歴史」と「大乗経典という文献が出現した歴史」とを混同している限り、大乗非仏説を乗り越えることはできません。そして実のところ、大乗非仏説を主張する側もまた、この大乗の教理と大乗経典を混同して論じるという誤りに陥っていると私は考えています。
本論において私が検証したいのは次の問いです。
「大乗経典という文献が後世に編纂・創作されたものであることは事実ですが、そこに記された大乗仏教の教理(大乗の法)そのものもまた、大乗経典が編纂された時代に初めて無から創作されたものなのでしょうか。それとも、大乗仏教における根本的な教理は、仏教の歴史における最初期から、すなわち歴史上の釈尊の金口から直接に説かれた教えに由来したものなのでしょうか」
この問いを解き明かすために、まずは仏教教団の最初期の姿を確認しましょう。歴史上の釈尊が入滅した後、釈尊の十大弟子の一人で頭陀(清貧行)第一と評されたマハー・カッサパ(摩訶迦葉)尊者を中心として「第一結集(けつじゅう)」が行われました。これは初転法輪や入涅槃と並ぶ、仏教史上における極めて重大な出来事です。しかし歴史学的な検証によれば、この第一結集は、一般に信じられているような「釈尊のすべての教えを、一言半句違わずにそのまま客観的に保存するための記録作業」ではなかったことが判明しています。阿含経典を引用しましょう。
その時,長老アーナンダは,長老の比丘たちにいった。「大徳よ,世尊は,般涅槃したもう時,わたしに申されました。〈アーナンダよ,わたしが死んでから,もし僧伽が欲するならば,小々戒は捨ててもよい〉と」「友アーナンダよ,そなたは,なにを小々戒となすかを,世尊にお尋ねしたであろうか」「大徳よ,わたしは,なにを小々戒となすかを,世尊にお尋ねしませんでした」一部の長老たちはいった。「それは,四つのパーラージカ(波羅夷)を除いて,その他は小々戒なのだ」また,一部の長老たちはいった。「それは,四つのパーラージカを除き,また十三のサンガーディセーサ(僧残)を除いて,その他は小々戒なのだ」さらに,一部の長老たちはいった。「それは,四つのパーラージカを除き,また十三のサンガーディセーサ(僧残)を除き,さらに二つのアニヤターを除き,三十のニッサッギャ・パーチッティヤ(捨堕)を除いて,その他は小々戒なのだ」さらに一部の長老たちはいった (中略) 。その時,長老マハー・カッサパは,僧伽に告げていった。「僧伽よ,わたしの申すことを聞きたまえ。われらの戒には,在家の人に係わるものがある。在家の人も,これはそなたたち釈尊にしたがう者にふさわしく,これはふさわしくないと知っている。もしわれらが小々戒を捨てたならば,あるいはいう者もあろう。〈沙門ゴータマが弟子のために制定した戒は煙のようなものだ。師のおられた時は戒を学んでいたが,師が般涅槃なされると,戒を学ばない〉と。もし僧伽にして機熟さば,僧伽は,制定されないものは制定せず,制定されたものはこわさず,制にしたがって戒を持したいものである。これがわたしの提案である。(中略)。未制を制せず,所制をこわさず,制にしたがって戒を持することに賛同する長老は黙したまえ。賛同せざる者は発言されよ。未制を制せず,所制をこわさず,制にしたがって戒を持して住す。僧伽は賛同するが故に黙す。わたしはかくのごとしと知る。」 (増谷文雄『阿含経典 3』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、509頁)
このように、釈尊の教え(遺言)の解釈についてすら、マハー・カッサパ尊者を筆頭とする出家者集団の間にさえ、大幅な見解の相違が存在したことを伝えています。このように、第一結集とは、こうした教義上の種々の解釈について、今後正統とされるものを決定(編纂)するための会議であったと推測されるのです。そして疑いなく善意からではありましょうが、小々戒の放棄を許可した釈尊の教えを実質的に削除したこの決定は、釈尊を一切智者として帰依する者からすれば、いささか不遜な行いに感じられても致し方ないものでしょう。ここにはマハー・カッサパ尊者の極めて強い指導が現れています。そして同時に、「第一結集において削除された釈尊の教えは、果たして小々戒の廃棄に関するもの『だけ』だったのでしょうか」という深刻な疑問が立ち上がるのです。
この疑問に関連して、非常に興味深い歴史的事実があります。それが何かといえば、マハー・カッサパ尊者による第一結集による経と律を受け入れることを明確に拒絶した釈尊の直弟子である長老が実際に存在した、という事実です。
この極めて重大な事実は、第一結集の様子を伝える律蔵に明確に記録されています。
そのころ,長老プラーナ(富蘭那)はダッキナーギリ(南山)の地方に遊行し,大比丘衆五百人も一緒であった。ところで長老プラーナは,長老比丘たちが法と律を結集する間,しばしダッキナーギリに行っていたのであり,やがてその後,ラージャガハのヴェールバナ(竹林)なる栗鼠養所の長老比丘たちのところに到った。到ると長老比丘たちと互いに会釈して,その傍らに坐した。傍らに坐すると,長老比丘たちは,長老プラーナにいった。「友プラーナよ,長老たちは法と律を結集した。この結集を受けたまえ」「友たちよ,法と律を結集したことはよろしい。しかし,わたしは,世尊のいますところで聞き,いますところで受けたように持するであろう」(前同書 514頁)
私が考えるに、すべての仏教徒が瞠目すべきこの記述は、次の決定的な事実を示しています。プラーナ尊者は慎重に言葉を選んでいますが、要するに「第一結集の経と律は、プラーナ尊者が歴史上の釈尊から聴聞した教えとは一致しておらず、したがって受け入れられない」という、穏やかな、しかし断固とした拒絶を示したという事実です。
現在、一部の人々の間では、第一結集によって編纂された阿含経典(相応部経典がその代表です)こそが釈尊の直説に最も近いと考えられています。しかし、こともあろうに釈尊の直弟子である長老自身が、第一結集の経と律は、釈尊の直説そのままではないと評価していたのです。そして、先に述べとおり、このプラーナ尊者の拒絶という事実からもまた、第一結集とは釈尊の言葉を書記のように記録する会合ではなく、マハー・カッサパ尊者が率いる出家者集団において今後「正統」とされる経と律を編纂するための会合であったということがさらに裏付けられるのです。
そして、多数の出家者を率いるプラーナ尊者のような責任ある立場の者が、もし第一結集によって編纂された経と律が、自らの記憶する歴史上の釈尊の教えと大きく相違していなければ、破和合僧罪、即ちサンガ分裂の火種になりかねないこのような大胆な拒絶は決してしなかったと考えられます。
仏教史の理解において、「プラーナ尊者による第一結集による経と律に対する非仏説批判」という事実の持つ甚大な意義は計り知れません。これらの記録から、以下の三つの重要な歴史的事実が浮かび上がります。
第一に、第一結集が目指した方向性は「出家主義と戒律主義の徹底」であったということです。釈尊の入滅を知り、「これは汝らにふさわしい,これはふさわしくないと,われらを悩ました」釈尊からついに脱することを得たとして喜んだ比丘がいたと伝えられています(前掲「阿含経典3」502頁参照)。この有名な逸話が示す通り、マハー・カッサパ尊者の最大の関心事は「出家者の堕落をいかに防ぐか」でした。その結果、釈尊在世時代の出家者の実践形式を、可能な限り維持し保存する戒律主義的な方向性が決定づけられました。当然、この戒律主義的な方向に沿わない釈尊の教えは、第一結集の編纂から意図的に削除された可能性が高いといえます。
第二に、釈尊入滅の前からすでに、高弟たちが率いる出家者集団はそれぞれ異なる独自の傾向を持っていた、ということです。マハー・カッサパ尊者とプラーナ尊者との間で、釈尊の教えの解釈が一致しなかったのは、疑い得ない事実です。ちなみに相応部経典には、これを裏付ける次のような興味深い経典が残されています。
その時,世尊は,もろもろの比丘たちに呼びかけて仰せられた。「比丘たちよ,汝らは,サーリプッタが,おおくの比丘たちとともに歩いているのが見えるか」「大徳よ,見えます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな大慧のものである。では,比丘たちよ,汝らは,モッガラーナが,おおくの比丘たちとともに歩いているのが見えるか」「大徳よ,見えます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな大いなる神通を得たるものばかりである。では,比丘たちよ,汝らは,カッサパが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,そうでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな小欲知足を行ずるものばかりである。では,比丘たちよ,汝らは,アヌルッダが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,そうでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな天眼を得たるものばかりである。では,比丘たちよ,汝らは,プンナ・マンターニプッタが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,そうでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな善き説法者ばかりである。では,比丘たちよ,汝らはまた,ウパーリが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,そうでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんなよく律を持するものばかりである。では,比丘たちよ,汝らはまた,アーナンダが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,そうでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな多聞のものばかりである。では,比丘たちよ,汝らはまた,デーヴァダッタが,おおくの比丘たちとともに歩いているのを見るであろうか」「大徳よ,さようでございます」「比丘たちよ,それらの比丘たちは,みんな善からぬ思いをもてるものばかりである。比丘たちよ,人間は類をもって集まり,類をもって結合する。劣れる好みを抱くものは,劣れる好みのものと,類をもって集まり,類をもって結合する。すぐれた好みを抱くものは,すぐれた好みのものと,類をもって集まり,類をもって結合する。 (増谷文雄『阿含経典 1』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、「阿含経典1」329頁)
第三に、これまでの検討に基づけば、釈尊入滅直後の原始サンガは、統一された一つの教理と律に基づく「単一国家」ではなく、それぞれ独立した教理と律を持つ州が集まった「連邦制」であったということです。そしてこの「連邦制サンガ」という視点は、仏滅後100年頃に起きたとされる原始サンガの根本分裂に対する一般的な見解を根本から覆すことになります。
一般的には原始サンガが根本分裂を起こし、上座部(スタヴィラバーダ)と大合誦部(マハーサンギカ(一般には『大衆部』と訳されますが、この訳語は単なる多数派の群衆という誤解を招きやすいため、本論では彼らが行ったとされる結集『大合誦=Mahāsaṃgīti』の担い手であったという歴史的意義を重んじ、あえて『大合誦部』と呼称します)に分かれ、「その後に」それぞれの部派において教理と律が別のものになっていった、のではありません。そうではなく、最初から釈尊の教えの解釈、とりわけ釈尊の教えが対機説法であることを前提にしつつ、どの教えを重視するかについて独自の見解を保持する様々なグループが並立していたのです。しかしそのような連邦制サンガであっても、皆が最も深刻な破戒である五逆罪の一つである破和合僧罪を避けるために、互いを正統なサンガとして承認し合うことで、原始サンガが100年間存続した、と理解すべきなのです。その連邦制サンガが根本分裂で解体し、各州が独立国として歩み始めたのが部派仏教の起源です。この連邦制サンガという見解は、なぜ根本分裂の後に急速に20もの部派が成立したのか、という仏教史の謎を明らかにします。これはつまり、独自の教理と実践傾向をもった出家者の集団は、実は根本分裂のはるか以前から事実上形成されていたのです。しかし、連邦制サンガが根本分裂で解体するまでは、他の集団の教理を公に批判するのを差し控えていただけなのです。このことは、プラーナ尊者が第一結集による経と律への具体的な批判を避け「結集したことはよろしい」と承認していることから推測できます。
そして、仏教の出家者の実践においては、教理上の見解の相違だけに留まる場合には、互いに異なる見解を有する出家者間でも、外形上は統一サンガを形成できるのです。なぜなら、相違が教理面だけであり、戒律の相違にまで及んでいなければ、布薩(ウポーサタ:出家者が半月に一度集まり、戒律を確認し、犯した過失を懺悔して“清浄な僧団の状態を回復する”ための儀礼)を共同で執り行うことができるのです。しかし、相違が戒律にまで及ぶ場合は、その二派は分裂せざるを得ないのです。なぜなら、戒律について二派の見解が相違してしまえば、どちらか又は双方とも、相手方が破戒していると断罪せざるを得ず、こうして共同して布薩を行うことが不可能になるからです。
なお、根本分裂については、5世紀頃に成立したとされる上座部系統の分別説部によるスリランカの歴史書『マハーワンサ』に、次のような記述があります。「マハーカッサパ等の大長老達により初めになされた正法合誦は,上座部の(合誦)と呼ばれる。初めの百年(間)は,かの上座部説の唯一つのみであったが,爾来他の阿闍梨説が生じた。(宝月註:上座部による)第二の合誦をなしたこれ等の(宝月註:上座部の)諸長老によって抑止されたこれ等総て1万人の悪比丘達は,大衆部と名づける阿闍梨説をなした。」(「Extended(or Cambodian)Mahavamsa」訳注(四)福田孝雄308頁)
しかしながら、すでに再三指摘した通り、第一結集の直後にプラーナ尊者の集団が受け入れを拒絶した事実があります。したがって、「初めの百年は第一結集の教義のみがあった」というマハーワンサの主張の破綻は明白です。また、釈尊からせいぜい2〜3代しか経過していない、全仏教徒の帰依処たる1万人もの出家者による大サンガを、十把一絡げに「悪比丘」としてはばからない態度に、原理主義的な宗派精神が強く認められます。これは、プラーナ尊者が第一結集の受け入れを拒絶した際の、断固としつつも穏やかな言葉使いとは鮮やかな対比をなしています。
このように原始サンガの内実は、そもそもの初めから、自らが最も正当であると判断した教えをそれぞれに保持する諸集団による連邦であったとすると、根本分裂後において大合誦部(マハーサンギカ)系統の各部派が保持していた教えは、控えめにみても根本分裂よりもはるか前に存在していたのは確実であり、おそらく釈尊在世の時からすでにその根本となる教えを保持していたものと考えられます。なぜなら、破和合僧という極めて深刻な結果を前にしても、それでもなお決して譲れない教理及び律の相違というものは、ある日にわかに発生したものでは決してあり得ないからです。そうではなく、根本分裂時の当事者たちの先代の師たちにおいて、既にそれぞれの集団において「歴史上の釈尊の正当な教え」として確立され、保持されてきた正統なる教理と律に背く結果を避けるため、という最も重要な価値を守るため、サンガ分裂という深刻な結果をも、やむを得ず受け入れるという決断に至ったに違いないのです。それ以外の理由で原始サンガの分裂を受け入れることは、真剣な仏教徒には決してあり得ないと私は確信しています。
そして、驚くべきことに、大乗仏教の根本的な教理が根本分裂時にすでに存在していたことが、客観的な史料からも認められるのです。それをこれからみていきましょう。
第3章:菩薩道及び阿羅漢劣位の教理の起源
それでは、大乗仏教の根本的な教理である「菩薩道」および「阿羅漢の劣位(如来の優位)」という教理が、後代の大乗経典の編纂時に新たに創作されたものでは全くなく、歴史上の釈尊の教えに直接由来するものであることについて見ていきます。部派仏教時代の現存史料に基づき、以下の二つの観点からその事実を整理します。
第一:菩薩道を否定した部派は一つも存在しない
一般的な仏教理解からすると意外な事実かもしれませんが、現存する部派仏教の文献によれば、菩薩道そのものを否定した部派は一つも存在しないという驚くべき事実が浮かび上がります。原始サンガが根本分裂および枝末分裂を経て20程度の部派に分かれた段階においても、その全ての部派が菩薩道という修行道が存在することを認めていたのです。したがって、菩薩道という修行道の存在自体は、歴史上の釈尊の直説の教えに由来することは確実といえます。
具体的に確認すると、上座部系統の各部派における菩薩道の扱いは以下の通りです。
分別説部(現在の南伝仏教の部派):『本生経(Jātaka)』や『仏種姓経(Buddhavaṃsa)』に基づいて、菩薩の修行・誓願・成仏の条件(八法)を明記していますを
説一切有部:『阿毘達磨大毘婆沙論』において、三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)という途方もない期間にわたる菩薩の修行体系を詳細に論じています。
経量部:後の大乗仏教の核心となる『種子(bīja)』という概念を用いて、菩薩の修行による心の潜在的な成長や成熟の過程を説明しようと試みました。
法蔵部:経・律・論に並ぶ「菩薩蔵(菩薩のための教えの集大成)」を独自に保持していました。
化地部:『五分律』において、出家せず在家のままでも菩薩道を歩む可能性を認めています。
そしてもちろん、大合誦部(マハーサンギカ)系統の部派では、例えば説出世部の『マハーヴァストゥ』において、菩薩の修行の位階が明確に説かれているのです。このように、上座部・大合誦部を問わず、菩薩道を非仏説として退けた部派は一切存在しません。したがって、「大乗経典という文献群により後世に菩薩道という概念が創作された」という見解は全くの誤りです。全く逆に、むしろ菩薩道という修行道の存在は、原始サンガにおいて最も広範に共有されていた釈尊の根本的な教えの一つであったのです。
第二:阿羅漢が如来に劣ることを否定した部派も存在しない
「阿羅漢は如来に劣る」ということ、裏を返せば「如来(仏陀)が阿羅漢よりも優れた存在である」という教えもまた、全ての仏教の部派仏教において共有されていました。
具体的には、如来十力(daśa-bala)、如来の四無所畏(catur-vaiśāradya)、如来の十八不共法(āveṇika-buddhadharma)といった、如来だけが有する超越的な能力に関する教えは、全ての部派に共通して存在しています。部派間で論争となったのは、「解脱の質(vimukti)が如来と阿羅漢で同一とみなせるか否か」という限定的な教理の定義問題にすぎません。如来の能力と功徳の総量が阿羅漢を凌駕するという教理そのものを否定した部派は一つとして存在しないのです。したがって、阿羅漢の劣後という教えもまた、確実に歴史上の釈尊に由来します。
なお、現代の仏教学者の一部には、「歴史上の釈尊は、偉大ではあるが単なる一人の人間にすぎず、後世において(とりわけ大乗経典によって)神格化されたのだ」と主張する人がいます。しかし、これは全く事実に反します。その誤りは、すべての部派が保持していた最古層の教えである「如来十力」の内容を知れば一目瞭然です。如来十力は、阿含経典において、釈尊自身が自らの超越的な能力を堂々と宣言する「師子吼(ししく)」として明確に説かれています。代表的な一次史料である『中阿含経』巻11「師子吼経」や『雑阿含経』巻26の記述に基づき、釈尊のみが持つとされる「10の絶対的な知力」を以下に解説します。
① 処非処智力(しょひしょちりき)
阿含経の記述:「如来は、道理(処)は道理であると如実に知り、非道理(非処)は非道理であると如実に知る」
解説:何が原因となり、何が結果となるかという「因果の必然性」を完璧に見通す力です。例えば「善い行いが苦しい報いをもたらすことは絶対にない(非処)」「悪い行いが苦しい報いをもたらすことは必然である(処)」という因果律を見誤らない知慧です。
② 業異熟智力(ごういじゅくちりき) / 業報智力
阿含経の記述:「如来は、過去・未来・現在のあらゆる業(行為)と、それがもたらす果報の法則を如実に知る」
解説:すべての生命が過去から未来にわたって積み重ねてきた複雑な業(カルマ)と、それがどのような結果(異熟)を引き起こすかを、一切の狂いなく個別具体的に見通す力です。
③ 禅定・解脱・三昧智力(ぜんじょう・げだつ・さんまいちりき)
阿含経の記述:「如来は、あらゆる禅定、解脱、三昧、等至における心の清浄と煩悩の汚れを如実に知る」
解説:この世に存在するあらゆる瞑想状態や解脱のプロセスについて、その深さや性質、正しい状態と間違った状態の区別をすべて把握している力です。
④ 根上下智力(こんじょうげちりき)
阿含経の記述:「如来は、他の衆生、他の人々の根(精神的な素質や能力)の勝劣を如実に知る」
解説:これが阿羅漢には備わっていない、仏陀の教化能力の源泉です。目の前にいる相手が、どれほどの理解力、信仰心、精進の素質を持っているかを瞬時に見抜き、その人に最も適した指導法(対機説法)を自在に選択できる能力です。
⑤ 種々勝解智力(しゅじゅしょうげちりき)
阿含経の記述:「如来は、世間の多様な勝解(人々の持つ欲求、関心、価値観の傾向)を如実に知る」
解説:人々がそれぞれどのような欲望を抱き、何を信じ、どのような傾向性を持っているのかという「心の多様性」を完全に理解する力です。
⑥ 種々界智力(しゅじゅかいちりき)
阿含経の記述:「如来は、世間の多様な界(世界を構成する要素や本質)を如実に知る」
解説:人間の心理だけでなく、この世界(宇宙)を構成するあらゆる物質的・精神的な要素の違いや法則性を完全に把握している力です。
⑦ 遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき)
阿含経の記述:「如来は、あらゆる場所(境界)へ至る道(実践)を如実に知る」
解説:どのような行いをすれば地獄に落ちるのか、どのような行いによって天界に生まれるのか、そしてどのような修行によって涅槃(悟り)に至るのかという、すべてのプロセスとルートを把握している力です。
⑧ 宿住随念智力(しゅくじゅうずいねんちりき) / 宿命智
阿含経の記述:「如来は、自らの過去の無数の生涯(一変、二変、百変、千変、万変の生)における名前、氏族、飲食、苦楽、寿命の果てまでを詳細に思い出すことができる」
解説:途方もない過去世の記憶を完全に保持している力です。
⑨ 死生智力(ししょうちりき) / 天眼智
阿含経の記述:「如来は、清浄な天眼によって、衆生がその業に従って死に、また別の場所へ生まれ変わっていく(善趣・悪趣、尊劣、美醜)様を如実に知る」
解説:世界中のすべての生命の輪廻転生(死生)を、リアルタイムで俯瞰して見通す力です。
⑩ 漏尽智力(ろじんちりき)
阿含経の記述:「如来は、すべての煩悩(漏)が尽きたことにより、無漏の心解脱・慧解脱を自ら証知し、『私の生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことは終え、もはや再びこの世に還ることはない』と如実に知る」
解説:究極の悟りを得て輪廻から完全に解放されたという絶対的な自覚と、その境地そのものです。阿含経において、この十力は明確に「如来だけが持つ特権」として説かれています。
実のところ、阿羅漢も最後の3つ(⑧宿命智、⑨天眼智、⑩漏尽智)に関しては「三明(さんみょう)」として部分的に共有しており、自らの煩悩が尽きたことは自覚できるとされています。しかし、前半の①〜⑦の知力、とりわけ「他者の素質を的確に見抜く力(④根上下智力)」や「多様な人々の欲求を把握する力(⑤種々勝解智力)」は、阿羅漢には備わっていません。つまり、阿羅漢は「自分自身の悟り」には到達できても、他者を教導し救済するための「全知性(一切智)」を持っていないのです。説一切有部などの部派が、「仏と阿羅漢の決定的な違いは『智慧の量』と『教化能力』にある」と規定したのも、まさに阿含経が伝えるこの「十力」の構造を厳密に継承した必然的結果なのです。
第4章:阿羅漢不完全説が圧倒的多数派
大乗非仏説を信奉する人々や、現代の一般的な仏教理解における誤解の一つが、「初期仏教においては、阿羅漢は煩悩を滅ぼし尽くした完全なる存在(無漏かつ不退転)であり、その悟りは仏陀と同等とされていた」という思い込みです。しかし、客観的な現存史料を精査すると、阿羅漢を完全とする見解は、部派仏教全体の中でごく少数の特異な一派にとどまる、という驚くべき事実が明らかになります。
阿羅漢が「無漏(むろ:煩悩が完全に無い状態)」であると強く主張した部派は、上座部系統のうち以下の三つに限られます。
分別説部(現在のスリランカ・東南アジアの南伝仏教の源流)及びその分派
説一切有部
経量部(ただし限定的)
ただし、ここで極めて重要な史実があります。上座部系統で大きな勢力を誇った部派である説一切有部(せついっさいうぶ)は、阿羅漢は無漏であるとしながらも、その完全な非可逆性(絶対に後退しないこと)までは認めていなかったという事実です。
説一切有部の教理の集大成である『阿毘達磨大毘婆沙論』や、世親菩薩の『阿毘達磨倶舎論』によれば、阿羅漢には以下の「六種」が存在すると明確に規定されています。
① 退法(たいほう):病気や環境の悪化などで、得た悟りから後退・脱落してしまう阿羅漢。
② 思法(しほう):悟りから退転することを恐れ、自ら命を絶とうと思う阿羅漢。
③ 護法(ごほう):退転を防ぐために、常に自らを厳しく守らねばならない阿羅漢。
④ 安住法(あんじゅうほう):何もしなくても退転しないが、向上もしない阿羅漢。
⑤ 堪達法(かんだつほう):努力によってさらに上の段階に進める阿羅漢。
⑥ 不動法(ふどうほう):絶対に退転しない完璧な阿羅漢。
この通り、説一切有部は、阿羅漢の多数(六種のうち五種)は、悟りの境地から退転(脱落)する危険性を孕んだ存在であると認めていたのです。つまり、『阿羅漢は完全に煩悩を滅ぼしており、かつ絶対にその境地から後退することはない』という絶対的完全性を強硬に主張したのは、分別説部やそこから派生した一部の保守的な部派に限られていたのです。
当時の仏教界を二分した最大勢力である大合誦部(マハーサンギカ)と上座部系統の説一切有部、さらに同じく上座部系統の犢子部(分派の正量部を含む)といった多数派は、いずれも阿羅漢の不完全性や限界を承認していたという史実を見れば、『阿羅漢は完全な境地である』という主張は、原始サンガにおける共通見解では全くなかったことは明らかです。このように、「阿羅漢不完全説(阿羅漢には限界があり、如来には遠く及ばないとする説)」を保持した部派は、仏教界の圧倒的多数派でした。
さらに、阿羅漢不完全説については、仏滅後100年後頃に起きたとされる「大天の五事(だいてんのごじ)」を巡る大論争も重要です。これは、大天(マハーデーヴァ)という比丘が、阿羅漢の不完全性を示す五つの事実を指摘し、これが部派分裂の大きな引き金になったと各種の史料(『異部宗輪論』など)に記録されています。
大天が主張した阿羅漢の限界(五事)とは以下の通りです。
① 余所誘(よそゆう): 阿羅漢であっても生理的な夢精(悪魔の誘惑による煩悩の残滓)がある。
② 無知(むち): 阿羅漢であっても、自らの専門外の事象や他者の心に対する「染汚(ぜんま)ならざる無知」が残っている。
③ 猶豫(ゆうよ): 阿羅漢であっても、教理の細部に対して「疑い(迷い)」が生じることがある。
④ 他令入(たれいにゅう): 阿羅漢は、他者(仏や師)の証明や導きがなければ、自分が悟ったことすら自覚できない者がいる。
⑤ 道因声故起(どういんしょうこき): 阿羅漢は、苦しい時に「苦しい」と声を発することで初めて真理(道)を現前させることができる。
これらの指摘は、当時の阿羅漢たちに生々しく残る人間的・構造的な限界を鋭く突いたものでした。そして重要なのは、この大天の指摘を大合誦部だけでなく、上座部系統の複数の部派も支持、あるいは一部容認していたという事実です。
大天が主張した阿羅漢の不完全性に対し、分別説部やそこから派生した化地部・法蔵部といった一部のグループはこれを激しく非難し、阿羅漢は完全に無漏であり絶対に退転しないと主張しました。しかし当時のインド仏教界の多数派は「大天の指摘(阿羅漢の限界)」を支持、あるいは容認していたのです。具体的には以下の通りです。
大合誦部(大衆部)系統: 大天の五事を全面的に支持し、「阿羅漢は不完全であり、仏陀(如来)はそれを遥かに凌駕する超越的存在である」と強く主張しました。
説一切有部(せついっさいうぶ): ここで極めて興味深い歴史的事実があります。当時の仏教界の最大勢力の一つであり、大合誦部と激しく対立した上座部系の説一切有部は、大天という人物とその『五事』を異端として激しく排斥しました。しかし驚くべきことに、その説一切有部でさえも、自らの教理体系(『大毘婆沙論』等)を構築する過程で、最終的には『阿羅漢の大多数は退転する危険がある(六種阿羅漢の退法など)』と認めざるを得なかったのです。
犢子部(とくしぶ)・正量部(しょうりょうぶ): 上座部系統の有力部派でありながら、「阿羅漢には退転があり、微細な無明が残る」との見解を採用しました。
これらの客観的な歴史史料から確認できる事実はただ一つです。分別説部やその周辺の分派という一部の例外を除き、「阿羅漢の境地には限界・退転があり、仏陀の境地とは決定的な格差がある」という認識が、部派仏教全体における主流だったということです。大天の五事という特定の教理を支持したかどうかは別として、『阿羅漢の境地には限界・退転がある』という根本的な認識においては、大合誦部だけでなく、彼らと対立していた上座部系の最大勢力(説一切有部など)までもが、事実上コンセンサスを形成していたのです。
そして、分別説部の流れをくむ現代の南伝仏教が戒律を護持していることは大いに尊重されるべきですが、彼らの主張する「阿羅漢の絶対的完全性」は、決して原始サンガにおいて共有されていた教えではなく、少数派の独自の教理にすぎません。したがって、「阿羅漢の限界」と「菩薩道の優位性」を説く大乗仏教の教理こそが、むしろ原始サンガの多数派の認識を受け継いだ正統説なのです。
第5章:根本分裂の真実相―大合誦部こそが伝統派―
以上の三点(菩薩道の普遍性・如来の絶対的優位・阿羅漢の不完全性)から明らかなように、後の大乗仏教の根本となる教理は、部派仏教全体に広く共有されていたのであり、それ故に歴史上の釈尊の教えに由来することはほぼ確実といえます。では、この伝統を最も強く保持したと考えられる「大合誦部(Mahāsāṃghika:マハーサンギカ)」とは、果たして歴史的にいかなる集団であったのでしょうか。
この点を明らかにするためには、原始サンガが二つに分裂した「根本分裂」の実態を、現存する客観的な史料に基づいて再検討する必要があります。
従来の仏教史や一般の認識では、スリランカの分別説部の歴史書(『島史』や『大史』など)の記述に依拠し、「戒律を厳格に守ろうとした正統派(上座部)に対し、戒律を緩めようとした堕落した多数派(大合誦部)が反発してサンガが分裂した」という見解が広く流布してきました。しかし近年の文献学および戒律(律蔵)の比較研究により、この図式は、分裂後に自らの正統性を主張するために上座部側が創作したプロパガンダにすぎないことが証明されています。その証拠が、現存する各部派の波羅提木叉(はらだいもくしゃ:戒本)の比較データです。サンガの規則である波羅提木叉の条文数を比較すると、大合誦部系の『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』に記された戒律が最も条文数が少なく、文法的にも極めて古い形態を保持していることが判明しています。一方、上座部系(特に説一切有部や法蔵部など)の戒律は、時代が下るにつれて条文数が肥大化し、規則が不自然に増加しているという明白な傾向が確認されています。
この上座部による戒律の増広という歴史的・文献学的事実と符合するのが、大合誦部系の伝承である『舎利弗問経(しゃりほつもんきょう)』の記述です。同経には、根本分裂の真の原因について次のように記されています。「古い長老たちが、釈尊が定めた本来の戒律に加え、自らの判断で新たな戒律を増広しようとしたため、多数の比丘がこれを非仏説として拒絶した」。ここで思い出していただきたいのは、第一結集の章で確認した「釈尊の遺言」です。釈尊は入滅に際し、「わたしが死んでから、もし僧伽が欲するならば、小々戒(細かな戒律)は捨ててもよい」とアーナンダに明言しました。釈尊の遺言に照らせば、戒律を時代に合わせて緩和(放棄)することすら許容されていたのです。それにもかかわらず、釈尊入滅後に一部の出家者たちは、釈尊の遺言とは全く逆に、釈尊が制定しなかった新たな戒律を次々と追加・細分化(増広)していくという、仏意に逆行する行動に出たのです。
以上の客観的な史料的状況と、戒律の変遷データから、根本分裂の実態は次のように再構成されます。
上座部: 釈尊の遺言(小々戒の放棄)を無無きものとし、自らの独自の解釈によって戒律を次々と細分化・追加(増広)していった少数派
大合誦部: 釈尊が制定した原初の戒律とその精神を保持し続け、戒律の追加を「非仏説である」として拒絶した多数派
このように、大合誦部は戒律を破った「怠惰な革新派」では全くありません。むしろ、プラーナ尊者が第一結集による律の改変を拒絶したのと同じように、原始サンガの伝統と寛容な連邦制を守り抜こうとした伝統派だったのです。律の増広に固執していく少数派に対し、大合誦部という大集団の出家者たちは、「釈尊の直説に照らして、新たな戒律の追加は受け入れられない」という立場を貫き、釈尊在世時の戒律をそのまま保持し続けました。
このように、根本分裂の実態とは、大合誦部が反逆して教団を割ったのではありません。自ら戒律を増やした少数の出家者たちが、歴史上の釈尊が定めた戒律のままであろうとした多数派の出家者たちとは布薩を共有することができなくなり、そのため分離・独立していった、というのが真相と考えられるのです。確かに、前章で述べた『大天の五事』による阿羅漢不完全説は、教理的な激しい対立(亀裂)を生みました。しかし、サンガが決定的に分裂(破和合僧)するためには、教理ではなく『戒律の相違によって共同の布薩ができなくなること』が必要になります。その決定的な分裂の引き金となった真の原因こそが、上座部側による戒律の不当な増広だったのです。
第6章:大合誦部諸派が保持した教えこそ大乗の源流
では、根本分裂において戒律の増広を拒絶し、「未制を制せず」として釈尊以来の伝統を守った多数派である大合誦部(マハーサンギカ)およびその分派は、具体的にいかなる教えを保持し伝承していたのでしょうか。結論を先に言えば、現存する客観的な史料に基づく限り、大合誦部の諸部派は、後の大乗仏教の根本をなす教理をすでに保持していたことが確認されています。以下に、各種の論書(『異部宗輪論』など)や現存文献から史料的に実証できる、大合誦部系の部派が保持していた主要な教理を整理します。
1. 説出世部(Lokottaravāda):如来の絶対的超越性と菩薩道の体系化
説出世部は、その名が示す通り「如来(仏陀)の身体や寿命、その威力は世間の枠組みを完全に超越した無漏(lokottara)の存在である」という仏陀観を保持していました。彼らが伝えた梵文文献『マハーヴァストゥ(Mahāvastu)』は、現存する大合誦部系文献の中でも最大規模の一次史料であり、菩薩の修行体系を詳細に描き出した重要な文献です。『マハーヴァストゥ』には、菩薩が成仏に至るまでの修行段階(後の「菩薩十地」の原型)、利他のための誓願と功徳の体系化、そして三阿僧祇劫にわたる過去世の修行物語がすでに組織的に整理されています。これは、大乗仏教における「波羅蜜(パーラミター)」の実践と合致するものです。現存史料の範囲において、説出世部は「菩薩道」の体系化と「超越的な仏陀観」を最も明確に保持していた部派であることが確実です。
2. 一説部(Ekavyāvahārika):空(śūnyatā)と「諸法仮名」
大合誦部から初期に分派した一説部は、「世間および出世間のあらゆる諸法(存在や概念)は、ただ仮に名付けられたもの(仮名:prajñapti)にすぎず、固定的な実体(自性)を持たない」という極めて高度な哲学的教義を保持していました。これはまさに、後の大乗仏教において『般若経』や龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が理論化した「空(くう)」および「無自性(むじしょう)」の教えそのものです。「空」の思想は、後世の大乗の論師が独自に発明したものではなく、部派仏教時代の一説部において既に保持されていたのです。
3. 大合誦部本宗(マハーサンギカ):心性本浄(citta-prakṛti-śuddha)と客塵煩悩
大合誦部本宗の教理として注目されるのが、「心性本浄(しんしょうほんじょう)」の教えです。彼らは、「心の本質は本来清浄であり、煩悩は後天的に外部から付着した汚れ(客塵煩悩:āgantuka-kleśa)にすぎない」と主張しました。なおこの教理は阿含経典にも見られます。この「心性本浄」の教理は、一切衆生が成仏できると説く、後の大乗仏教における「如来蔵(Tathāgatagarbha)」、「仏性(ぶっしょう)」、そして「本覚(ほんがく)思想」の基礎となりました。
4. 制多山部(Caitika)など南インド系諸派:仏塔信仰と十方現在仏
南インドを中心に勢力を誇った制多山部や案達羅派などの大合誦部系分派は、仏塔(ストゥーパ)への礼拝供養を極めて重んじていました。この仏塔信仰の場は、出家者だけでなく広く在家の信者たちも巻き込んだ開かれた信仰空間であり、これが『出家在家を問わず菩薩道を歩める』という大乗的実践の土壌を育んだと考えられます。さらに重要なのは、この部派が「現在も他方の世界(十方)には、現に説法を行っている仏陀たちが多数存在している」という「十方現在仏(現在他方仏)」の教義を保持していた事実です。上座部が「仏陀はこの世界にただ一人、歴史上の釈尊しか存在しない」と限定したのに対し、制多山部が保持していた教理には、阿弥陀仏や薬師如来といった「多仏信仰」を説く大乗経典の世界観と軌を一にするものがあったのです。
以上を総合すると、大合誦部諸派が保持していた教義は次のように整理されます。
如来の超越性(説出世部) = 大乗の「仏身論(久遠実成など)」
諸法の無自性(一説部) = 大乗の「般若・空の思想」
心性本浄・客塵煩悩(大合誦部本宗) = 大乗の「如来蔵・仏性思想」
十方現在仏と仏塔信仰(制多山部等) = 大乗の「多仏信仰・浄土思想」
菩薩道の体系化(説出世部) = 大乗の「十地・波羅蜜の実践」
ご覧の通り、これらは後の大乗仏教の根本的な教理そのものです。したがって、「大乗仏教の教理は、後代の大乗経典の編纂とともに無から捏造されたフィクションである」という批判は、文献学的・歴史学的証拠の前に破綻しているのです。
ただし、後の大乗仏教という巨大な運動は、大合誦部のみから単独で発生したわけではありません。後の世親菩薩のように、説一切有部など他の部派に属しながらも、自派の教理に限界を感じた多くの出家者や在家信者たちが、教団の枠を越えて合流した「汎部派的な運動(Pan-sectarian movement)」であったというのが現在の歴史学の見解です。しかし、その多様な人々が結集する際の教理的な基礎となり、大乗仏教を生み出す最大の源泉となったのが、大合誦部およびその諸派が保持してきたこれらの教理であったことは疑いようがありません。このように大乗仏教の根本の教理は、原始サンガにおいて「歴史上の釈尊の直説」としてすでに存在しており、根本分裂ののちも、原初の伝統を保持した大合誦部が継承してきたものなのです。後世の大乗経典の編纂者(祖師)たちは、新しい教義を無から発明したのではなく、大合誦部等の部派に保存されてきたこれらの教理を、あらゆる時代のあらゆる国家のあらゆる衆生を救済するために、普遍的に妥当する「新しい文学的様式」に包んで、広く世に公開したにすぎないのです。
第7章:直接的証拠としてのスッタニパータと相応部経典の相違
原始サンガが連邦制としての在り方をとっていたこと、そして連邦制にもかかわらず、部派仏教全体で「菩薩道の教え」や「阿羅漢の劣位(声聞乗の限界)」を共通して保持していたことは、これまで論証してきた通りです。しかし私は、大乗の教理が歴史上の釈尊に由来することについて、より直接的な証拠が存在すると考えています。それは特殊な文献学の知識がなくても、誰もが直接文献を読んで確認できる明白な事実です。すなわち、現存するあらゆる経典のうち最も古い経典とされている『スッタニパータ』と、最も古くはないものの古層に属するとされている『相応部経典』に見られる極めて大きな様式と内容の相違です。
「阿含経典(パーリ五部)はすべて歴史上の釈尊の直説をそのまま伝えたものである」という歴史学的見解と矛盾する固定観念を捨てて、スッタニパータと相応部経典を素直に読み比べれば、誰の目にも明らかな事実が浮かび上がります。それは、どちらも同じように「原始経典」と分類されているにもかかわらず、両者は全く別様式の文書であるということです。
『スッタニパータ』には、教理を体系化しようとする編集の痕跡はみられず、はっきり言えば、様々な対話や詩句が雑然と寄せ集められている感があります。ところが『相応部経典』は、控えめに言っても、編纂者にとって不必要と判断された情報が大幅に削除され、教義の枠組みに合わせて強く編集された文書であることは一目瞭然です。これから個別に検討するように、もし『スッタニパータ』の雑然とした対話の記録こそが歴史上の釈尊の生の言葉に最も近いとするならば、必然的に『相応部経典』は、釈尊の言葉をそのまま記録したものではなく、マハー・カッサパ尊者による第一結集において(あるいはそれを基礎にしてより後世に)意図的に編纂・創作された文献であるという結論が導き出されます。
『スッタニパータ』が持つ重要な特徴の第一は、一般的に仏教の根本教理とされ、南伝仏教(分別説部)において極めて重視されている「四諦」「十二因縁」「八正道」「五蘊」「十二処」といった「法数(定型化された仏教用語)」の記述がほとんど登場しないという点です。一方の『相応部経典』は、テーマごとにきっちりと分類され(テーマごとに「〇〇相応」とまとめられているため相応部と呼ばれます)、本文中には高度に体系化された仏教用語が羅列されています。具体例として、仏教の最も根本である四諦(苦・集・滅・道)に関する記述を比較してみましょう。
「修行僧たちよ。善にして,尊く,出離を得させ,さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが,『善にして,尊く,出離を得させ,さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは,何故であるか』と,もしもだれかに問われたならば,かれらに対しては次のように答えねばならぬ。 ――『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば,そなたたちのいう二種とは何であるか,というならば,『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが,一つの観察〔法〕である。『これは苦しみの消滅である。これは苦しみの消滅に到る道である』というのが,第二の観察〔法〕である。修行僧たちよ。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して,怠らず,つとめ励んで,専心している修行僧にとっては,二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。――すなわち現世における〈さとり〉か,あるいは煩悩の残りがあるならば,この迷いの生存に戻らないこと(不環)である。―― (中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』岩波書店〈岩波文庫〉156頁)
これは『スッタニパータ』において、初転法輪の内容として極めて有名な教えを説いている箇所です。しかし驚くべきことに、ここでは苦・集・滅・道について語っているにもかかわらず、「四諦」という仏教用語は一切用いられず、かえって「二種ずつの真理(観察法)」として全く別のまとめ方がなされています。それどころか、『スッタニパータ』全編を通じて、「四諦」という仏教用語はただの一度も使用されていないのです。一方で、『相応部経典』には「諦相応(四諦に関する経典を集めた章)」が設けられており、そこには「四諦」や「四聖諦」という専門的な仏教用語が頻繁に使用されています。経名そのものが「四聖諦」となっている経を引用します。
かようにわたしは聞いた。ある時,世尊は,ラージャガハ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養所にましました。その時,世尊は,比丘たちに告げて仰せられた。「比丘たちよ,四つの聖諦がある。その四つとは何であろうか。それは,苦の聖諦,苦の生起の聖諦,苦の滅尽の聖諦,および,苦の滅尽にいたる道の聖諦である。比丘たちよ,これが四つの聖諦である。比丘たちよ,これら四つの聖諦のなかには,まさによくよく知るべき聖諦がある。まさに捨離すべき聖諦がある。また,まさに証得すべき聖諦がある。さらにまさに修め習うべき聖諦がある。では,比丘たちよ,まさによくよく知るべき聖諦とは,いずれの聖諦であろうか。比丘たちよ,苦の聖諦はまさによくよく知るのがよいのである。苦の生起の聖諦は,まさに捨離するのがよいのである。また,苦の滅尽の聖諦は,まさに証得するのがよいのである。そして,苦の滅尽にいたる道の聖諦は,まさに修め習するのがよいのである。されば,比丘たちよ,〈こは苦なり〉と勉励するのがよろしい。〈こは苦の生起なり〉と勉励するのがよろしい。また〈こは苦の滅尽なり〉と勉励するのがよろしい。そして〈こは苦の滅尽にいたる道なり〉と勉励するのがよろしいのである。 (増谷文雄編訳『阿含経典2』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、310頁)
このように『相応部経典』では、釈尊自身が四諦に関する既に確立した教義を前提として仏教用語を頻繁に使い、弟子たちもまた特段の説明なしにそれを理解しているかのように描かれています。しかし、当時の一般的な用語を用いて説法し「四諦」という言葉を一度も使わない『スッタニパータ』の釈尊の姿と、定型化された用語を羅列する『相応部経典』の釈尊の姿との間には、極めて大きな乖離があると言わざるを得ません。
第二の違いは、反復記述の有無です。『スッタニパータ』には、同じ形の文章の単語を少し入れ替えただけで延々と繰り返すという記述がほとんどありません。ところが、第一結集による経に最も近いとされる『相応部経典』には、この反復記述が非常に多く見られます(先の「四聖諦」の経や、前章で引用した「類は友を呼ぶ」の経典にもはっきりと現れています)。この反復記述は、教えを暗誦するためには非常に便利です。つまり、『相応部経典』は暗誦と教義の固定化に適するように編集されたものです。一方で、歴史上の釈尊が、対機説法と呼ばれる相手に影響を与えるために最適な形を取ったとされる説法において、暗誦のような同型反復の言葉を一方的に語り続けたとは到底考えられません。このように『スッタニパータ』に反復記述がほとんど存在しないという事実こそが、これが歴史上の釈尊の生の言葉をありのままに伝えていることの証明です。
また、現代の仏教学者の間でも、『スッタニパータ』は仏典中で最も古いテキストであると評価されています。その根拠として、パーリ語ではなく「マガダ語(歴史上の釈尊が実際に用いたとされる言語)」と思われる古い語形が残っていることが挙げられます。また、『スッタニパータ』の注釈書である『義釈(ニデッサ)』は、伝承によればサーリプッタ(舎利弗)尊者の作とされています。もしこの伝承が事実であれば、サーリプッタ尊者は釈尊より先に亡くなっているため、少なくとも注釈された部分の経典は「釈尊の在世中」にすでに成立していたことになります。さらに、「スッタ(経)」「ニパータ(集まり)」という、他の経典との差別化が一切なされていない極めてありきたりな名称も、これ以外の経典がまだ存在していなかった最古の時代に成立したことを強く示唆しています。また、『スッタニパータ』が上座部系の大蔵経に含まれていながら相応部のように編纂されていないのは、第一結集が行われた以前から、すでに弟子たちの間で広く定着しており、そのため後から編集の手を加えることが不可能だったからではないかと推測されるのです。
以上の事実から、『スッタニパータ』こそが現存する最も古い経典であり、歴史上の釈尊の肉声を最も正確に伝えるテキストであると断言してよいでしょう。しかしここで最も重要な点は、単なる様式の違いではありません。『スッタニパータ』には、後の大乗仏教の根本的な教理を彷彿とさせる教えが、釈尊の生の言葉として随所に散見されるという驚くべき事実にあるのです。
かれらははからいをなすことなく,(何物かを)特に重んずることもなく,「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って,世間の何ものについても願望を起こすことがない。(真の)バラモンは,(煩悩の)範囲をのり越えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても,執着することがない。かれは欲を貪ることなく,また離欲を貪ることもない。かれは〈この世ではこれが最上のものである〉と固執することもない。 (「ブッダのことば」177頁)
かれらは,妄想分別をなすことなく,(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは,諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は,彼岸に達して,もはや環ってこない。 (「ブッダのことば」180頁)
いかがでしょうか。歴史上の釈尊の肉声に最も近いとされるこれらの教えには、『スッタニパータ』を翻訳した初期仏教学の世界的権威であった中村元博士すら驚愕の念を禁じ得なかったようで、「離欲を貪ることもない」という言葉に対して次のような注釈を付しています。
「理想の修行者は,欲望を離れているのみならず,〈欲望を離れている〉ということをも離れているのである。こういう表現は,後代の空観,または禅僧のさとりを思わせるものがある。」(「ブッダのことば」382頁)
しかしこれは後世の禅宗の文献ではなく、釈尊在世中に成立していたと考えられる最古の仏典の言葉なのです。「戒律や道徳によって導かれることもない」という戒律の放棄や、「悟りや離欲への執着すら捨てる」という捨の教理は、まさに大乗仏教の説く教理そのものです。もっとも、このような教えが、マハー・カッサパ尊者の集団にとって「初心の出家者の規律を乱す」「戒律の護持にふさわしくない」と評価され、第一結集による編纂によって意図的に削除されたのだとしても、彼らの戒律主義的な立場からすれば十分に理解できることです。
さらに、『スッタニパータ』には、そのものずばり「空(くう)」の教えを直接説いている箇所も存在します。
モーガラージャさんがたずねた,「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが,眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と,わたくしは聞いております。この世の人々も,かの世の人々も,神々と,梵天の世界の者どもも,誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知っていません。このように絶妙な見者におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を,死王はみることができないのですか?」(ブッダが答えた),「つねによく気をつけ,自我に固執する見解をうち破って,世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を,〈死の王〉は見ることがない。」 (「ブッダのことば」235頁)
この引用は決定的に重要です。ここには三つの重大なポイントが含まれています。第一に、「空の教えの秘匿性」です。釈尊はモーガラージャに対し、世界に関する真理を説くことを二度も拒否しました。神々にすら知られていないこの見解は、釈尊がいつでも誰にでも説くものではなかった、即ち特別の法であったという事実を示しています。第二に、「世界を空なりと観ぜよ」という言葉は、釈尊の見解が、自己のみならず『現象世界のあらゆる事象に実体(自性)はない』という、後の大乗仏教が『法我空』と呼んで体系化した思想のまさに源流にあったことを証明しています。これは、有名な「三世(過去現在未来)に実有なる法(真理)の体は恒に有る(空ではない)」と主張した上座部系統の説一切有部の解釈、さらに現在の南伝仏教である分別説部の説である色、心、心所、涅槃の四法に自性がある、即ち空ではないとする教理が、歴史上の釈尊の教えと矛盾するものであることを明確に示す歴史的な証拠です。第三に、「正念(気を付ける)→我執の打破→法我空の現観」という順番です。これは、後のチベット仏教におけるラムリム(菩提道次第)の空観のプロセスと一致しており、その原型がすでに最古層の経典に示されていたことを意味します。
また、『スッタニパータ』には、南伝仏教(分別説部)が理想の境地とする「無余涅槃(肉体も精神もすべて完全に消滅する境地)」に対し、釈尊による極めて重要な批判があります。
この世において或る賢者たちは,『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き,(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と,巧みに語っている。かの聖者は,『これらの偏見はこだわりがある』と知って,諸々のこだわりを熟考し,知った上で,解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。 (「ブッダのことば」193頁)
釈尊は、「すべてを残りなく消滅させる無余涅槃こそが最上である」と主張する者たちを、「いまだ偏見とこだわり(執着)がある」と断言しています。後に大乗仏教が部派の阿羅漢たちを「灰身滅智(けしんめっち:ただ灰になり滅するだけの悟り)」と批判したことと全く同じ批判を、歴史上の釈尊自身が行なっていたのです。
また、「真の解脱者は論争におもむかない」「~ない」という否定形の多用は、大乗の論師である龍樹菩薩の『中論』と見事に響き合います。『中論』冒頭の有名な帰敬偈(八不中道)を比較してみましょう。
滅することなく,生ずることなく,断なることなく,常なることなく,同一のものなく,異なるものなく,来ることなく,行くこともなき,戯論の止滅した,吉祥なる縁起を説いた正覚者,もろもろの説法者中,最も優れた人にわたしは敬礼する。
私の考えでは、龍樹菩薩のこの帰敬偈は、決して彼独自の哲学の発明などではなく、『スッタニパータ』に記された歴史上の釈尊の空の教えを見事に要約・体系化したものに他なりません。
しかし、驚きはこれにとどまりません。なんと最古層の経典に、後の前期密教(所作タントラ)における「天部への礼拝供養」に繋がりうる源泉が、歴史上の釈尊の肉声として明確に刻まれているのです。いかなるものであれ密教の実践をする者は、この歴史的な事実は必ず知っておくべきでしょう。大前提として、釈尊は当時のインド土着の神々への礼拝や祭祀を「外道」として一律に排斥したわけではありません。一般には「密教はヒンドゥー教の神々を後から取り込んだ(習合した)」と解釈されがちですが、事実は逆です。釈尊は当初から、諸天善神に供物を捧げる実践を容認し、推奨すらしていました。スッタニパータをみましょう。
「この世の中では,仙人や王族やバラモンというような人々は,何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」(師が答えた),「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば,その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす,とわたくしは説く。」 (「ブッダのことば」94頁)
釈尊は祭祀による効果(利益)を明確に認めた上で、さらに驚くべきことに、在家の青年に対して「自ら祭祀(礼拝供養)を行うこと」を命じているのです。
マーガ青年がいった,「この世で施しの求めに応ずる在家の施主,福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が,他人に飲食物を与えるに当たって,どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたしに説いてください。先生!」尊き師(ブッダ)は答えた「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。かれは貪欲を離れ,憎悪を制し,無量の慈しみの心を起して,日夜つねに怠らず,無量の心をあらゆる方角にみなぎらせる。」 (「ブッダのことば」104頁)
この引用から明らかなように、釈尊は在家者に対してバラモン教の祭祀をやめさせるどころか、逆に祀りに専心するように命じました。ここで釈尊が説いたのは、祭祀の否定ではなく、どのような心で供物を捧げるべきかという内心(無量の慈しみ)の実践だったのです。したがって、前期密教の儀礼がインド伝統の祭祀を基礎としているからといって、それを「後世の不純物」と断定するのは全くの誤りです。歴史的な事実として、釈尊の直接の指示に従い、仏教的に変容した「慈悲の祭祀」に専心する在家者が、釈尊在世時から存在していたのです。しかも重要なのは、このマーガ青年が出家することなく、最後まで在俗信者であったという点です。
わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしを在俗信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。 (「ブッダのことば」105頁)
出家者にならず、在俗のまま「慈悲の祭祀(所作)」の実践に専心するマーガ青年のような人々が、その教えを代々継承していったとすればどうでしょうか。そこには、上座部の出家至上主義には決して収まらない、在家のまま天部への供養を実践する「隠れた法統」が形成されていくことになります。歴史上の釈尊が祭祀の意義を認めていた以上、こうした「祀り実行者」たちは各地に生まれていたはずです。この「祭祀を通じた慈悲の実践」という隠れた法統の流れこそが、後に前期密教という豊かな大河を形成していったと私たちは考えるべきなのではないでしょうか。
『スッタニパータ』には、このように大乗仏教や密教の核心と一致する教えが記録されています。しかし、第一結集の編纂に最も近いとされる『相応部経典』には、これらの教えはほとんど残っていません。マハー・カッサパ尊者が率いる戒律主義的な出家者集団にとって、「戒律に導かれない」「バラモン教の神々への祭祀を容認する」といったこれらの教えは、初心の出家者の規律を緩める危険なものと評価され、経典から意図的に削除された可能性が高いのです。一方で、上座部系統の部派が捨てた歴史上の釈尊の深遠な教えは、大合誦部(マハーサンギカ)系統の部派によって広く共有され、保存されてきました。そしてそれが時を経て、大合誦部の文献である『マハーヴァストゥ』や、大乗経典の中に、歴史上の釈尊の正当な教えとして再び力強く姿を現したと見るべきなのです。
第8章:大乗経典は摩訶僧祇律による在家者の暗誦許容により誕生
大乗仏教の根本的な教理が、部派仏教の広範な伝統の中にすでに存在していたことは前章までに確認してきました。さらに、大乗経典には、アビダルマ論書や部派の経典にはほとんど見られない、もう一つの顕著な特徴が存在します。それは、『法華経』や『般若経』をはじめとする大乗経典が、経典を受持し、読み、誦し、解説し、書写し、流布するという行為を、驚くほど強調し、その功徳を甚大なものとして称揚している点です。
大乗経典におけるこの読誦推奨は、単なる信仰の表現ではなく、部派仏教の戒律の差異に根ざした歴史的背景を持つと考えられます。近年の律蔵の研究によれば、上座部系の複数の律には、具足戒を受けていない者と声を合わせて法を誦してはならないという規定が共通して存在していることが確認されています。この規定は、読誦という行為が初期仏教において法の伝達の中心的実践であったことを示すと同時に、誰が読誦を行うことができるかを定めることが、僧団の境界形成に直結していたことを示唆しています。すなわち、上座部系の律は、読誦の主体を具足戒を受けた比丘に限定する方向で制度化されていったと考えられます。このような規定は、意図がどうであれ、結果として法を声に出して扱う権限を出家者側に集中させ、僧俗の間に明確な境界を形成することになりました。現代の上座部仏教において、僧侶のみが読誦し、在家者は聴聞するという儀礼構造が一般化しているのは、このような戒律的背景の延長線上にあると理解できます。
これに対し、大合誦部(マハーサンギカ)の律である『摩訶僧祇律』には、上座部系律に見られるような同誦禁止に相当する規定が確認されていません。この事実は、戒律比較の観点からきわめて重要です。摩訶僧祇律は、現存する諸律の中でも最古層の特徴を多く保持しているとされますが、その中に同誦禁止が存在しないということは、この種の規定が上座部系の伝統において後発的に整備された可能性を示唆しています。すなわち、大合誦部の伝統は、読誦を僧俗で分離する制度を持たず、法を声に出して共有する実践を制限しなかった可能性が高いといえます。この点は、大合誦部が大衆的で開放的な性格を持っていたとする従来の仏教史研究の評価とも整合しています。
このような読誦の開放性は、大乗仏教の成立において決定的な役割を果たした可能性があります。大乗経典では、出家・在家を問わず法を語る者として描かれる法師が特別な地位を与えられ、経を受持し、読誦し、解説し、書写し、他者に伝えるという行為が、菩薩の最重要実践として称揚されます。また、大乗経典の文学的様式は、壮大な物語、宇宙的イメージ、比喩表現など、聴衆の前での読誦や唱和と相性が良く、これは大乗経典が閉ざされた僧院の内部で専門的に読まれるための文献ではなく、開かれた読誦空間において、多様な聴衆に向けて語られることを前提として成立したことを示唆しています。大乗経典の文学性は、まさにこのような開かれた場における法師たちの活動と密接に結びついていたと考えられます。
大乗経典はまた、善男子・善女人(在家者)と比丘・比丘尼(出家者)を区別せず、読誦の功徳を平等に説きます。これは、上座部系律に見られる読誦の分離と対照的です。さらに密教に至ると、出家・在家という身分よりも、灌頂の有無が決定的な境界となり、特定の経・真言・儀礼は灌頂を受けた者にのみ許されるという構造が成立します。これは、身分ではなく、法を受け取る器(覚悟)こそが重要であるという大乗仏教の価値観が、儀礼体系として完成した形であると理解できます。
以上の点を総合すると、戒律比較という客観的な史料領域は、上座部系統の律が読誦の主体を出家者に限定する方向で制度化されたこと、大合誦部系律が読誦の分離を制度化しなかった可能性が高いこと、そして大乗経典が読誦を僧俗に開かれた実践として再定義し、法師という新しい主体を創出したことを示唆しています。大乗仏教の読誦重視は、大合誦部系統の在家者との法の共有の伝統を継承し、それを菩薩道の実践として再構築したものと理解することができます。大乗経典の文学性は、閉ざされた僧院ではなく、開かれた読誦空間から生まれた宗教的想像力の結晶であり、その背景には、戒律の差異という歴史的条件が存在していたと考えられます。
第9章:大乗仏教研究史における本論の意義
前章で提示した「大乗経典と法師(dharmabhāṇaka)誕生のメカニズム」は、既存の仏教学が長年抱えてきた複数の未解決問題を、摩訶僧祇律の在家者による暗誦許容によって回答しようとしたものであり、その学術的な意義は、大乗護教論としての本論においては付随的ではありますが、本章ではこれを少し述べたいと考えます。そこで以下では、戒律研究、大乗経典研究、口伝文化研究という三つの領域がどのように発展し、なぜそれらが相互に接続されてこなかったのかを検討し、本論が提示する統合的な視点の意義を述べます。
まず戒律研究の領域においては、W. Pachow や平川彰をはじめとする研究者たちが、各部派の戒本(波羅提木叉)の比較研究を行い、摩訶僧祇律が最古層の特徴を保持していること、上座部系の律において波逸提条項が増加していること、そして同誦禁止(saha-dharma-vācana)が上座部系に共通して存在することなど、重要な史実を明らかにしてきました。しかし、これらの研究は主として文献の先後関係を確定することに焦点が置かれ、同誦禁止の有無が紀元前のインド社会においてどのような意義を持っていたか、特に「無文字社会(口伝社会)」における在家者の経典へのアクセスの観点から検討されることはありませんでした。戒律研究はあくまで文献学的比較にとどまり、社会史的・メディア論的視点が導入されることはほとんどありませんでした。
次に、大乗仏教の成立をめぐる研究においては、平川彰が提唱した「仏塔教団説」が大きな影響を与えました。平川は、大乗仏教が出家者のサンガとは異なる在家中心の仏塔集団から生まれたとする仮説を提示しましたが、この説は後に欧米の研究者から批判を受けました。批判の核心は、「専門的な教理訓練を受けていない在家者が、般若経のような高度な哲学的テキストを創出できるはずがない」という点にありました。平川説は、在家者が高度な教理知識をどのように獲得したのかというメカニズムを説明できず、そのため現在の学界では限定的な支持にとどまっています。これに対し、ポール・ハリソンやジョナサン・シルクらは、大乗仏教を「法師(dharmabhāṇaka)によるテキスト運動」として捉える新しい視座を提示しました。彼らは、大乗経典が読誦・暗誦を中心とする口伝文化の産物であることを強調し、法師の存在を大乗仏教成立の鍵とみなしました。しかし、彼らの議論には「法師がどの部派の制度的土壌から生まれたのか」という決定的な問いが残されていました。すなわち、法師がどのような環境で高度な教理を習得し得たのか、その社会的・制度的基盤については十分に説明されていませんでした。このように、戒律研究、大乗経典研究、口伝文化研究はそれぞれ重要な知見を蓄積してきましたが、三者は互いに接続されることなく、独立した領域として発展してきました。そのため、摩訶僧祇律に同誦禁止が存在しないという事実、大乗仏教が法師による読誦運動であったという事実、そして在家者が高度な教理をどのように習得したのかという問題は、長年にわたり別々の文脈で議論され、統合的な説明が欠けていました。
本論が提示する視点は、これら三つを統合するものです。すなわち、紀元1世紀頃まで経典が文字化されていなかったという歴史的条件のもとでは、経典の暗誦は法を学ぶ唯一の手段であり、同誦禁止は実質的な情報統制として機能していたこと、そして摩訶僧祇律が同誦を許容していたために、在家者が高度な教理を暗誦し、法師として成長する制度的な土壌が存在していたことを示しました。この視点は、平川説の弱点を補強し、ハリソンらの法師説に制度的基盤を与え、戒律研究の知見を社会史的に再解釈するものです。以上のように、本論が提示する「大乗経典と法師誕生のメカニズム」は、既存の仏教学が抱えてきた問題を一つの理論として統合し、部派仏教から大乗仏教への歴史的連続性を制度的・社会的・メディア論的観点から説明する新しい枠組みを提供するものです。この視座は、大乗仏教成立論における一つの示唆になり得ると考えます。
同時に、この学術的な統合は、本論が目的とする「大乗護教論」の根幹をなすものです。なぜなら、大乗仏教が後世の捏造ではなく、釈尊の「開かれた法の精神」を歴史的・制度的に正統に受け継いだ必然的帰結であるという事実が客観的に証明されることで、現代の大乗実践者は、自らの信仰と実践の土台が強固な史実の上に立脚していることを、曇りなく確信することができるからです。
第10章:想定される上座部史観及び仏教学者からの反論とその再反論
ここまで、歴史学・文献学・教理史の客観的史料に基づき、大乗仏教の核心が歴史上の釈尊に直接由来することを論証してきました。ここでこれまでの伝統的な「上座部史観」に立つ者たちが取りうるであろう反論を提示しつつ、それらがいずれも破綻していることを確認しておきたいと思います。
第一の反論:「阿含経典こそが釈尊の最古の教えであり、大乗は後世の創作である」
この主張は、「マハー・カッサパによる第一結集は、釈尊の言葉の完全な逐語録である」という前提に依存しています。しかしすでに論証した通り、第一結集は単なる記録ではなく、特定の意図を持った編纂でした。出家主義・戒律主義に合致しない教えが排除された可能性は高く、何より釈尊の直弟子であるプラーナ尊者自身が第一結集による経と律の受容を拒否しています。「阿含経典は釈尊の教えそのものではない」という事実は、他ならぬ上座部自身の律蔵の一次史料によって証明されていています。
第二の反論:「大乗経典は釈尊の時代に存在しなかった。だから大乗の教えは偽物である」
これは「文献の成立時期」と「教理の起源」を混同したものです。本論は、「文献としての大乗経典は後世に新しい文学的様式として整えられたが、その中核となる教理(菩薩道・如来の超越性・空)は釈尊の時代にすでに存在していた」という点にあります。すべての部派が菩薩道を承認し、阿羅漢劣位説が多数派の共通見解であったという史実の前では、大乗経典の成立と大乗の教理の成立を混同する主張は成立しません。
第三の反論:「大乗は部派仏教の後期に突如として現れた、一部の者たちによる革新(逸脱)運動である」
この批判は、スリランカ分別説部の歴史書が主張した「根本分裂により、堕落した大衆部が分派した」という誤った歴史観に基づくものです。本論でお示しした通り、原始サンガは単一の教義国家ではなく、複数の教義系統が並存する「連邦制」でした。そして多数派を形成した大合誦部(マハーサンギカ)は革新派などではなく、釈尊の制定した戒律を増広しようとした少数派から、釈尊が制定した戒律を保持した伝統主義派です。そして、大乗の根本的な教理は部派仏教の後期に発生したのではなく、根本分裂よりはるか前であることは確実であり、おそらくは釈尊在世の時代にまで遡るのです。
第四の反論:「最古層のスッタニパータは大乗的ではない。大乗的な解釈は後世の牽強付会(こじつけ)だ」
これも全く事実に反します。文献学的に後世の編集が最も少ないとされる『スッタニパータ』の中にこそ、「世界は空なりと観ぜよ」という明確な法空観や、「戒律によって導かれるものではない」「離欲すら貪らない」といった既存の枠組みの超越(非二元・無所得)がはっきりと記されています。これらは大乗の根本的な教理そのものです。むしろ問われるべきは、「なぜ最古層の経典に大乗的な教えが存在するのか」という点であり、その答えは「大乗の核心は釈尊の最初期の教えにすでに含まれていた」という以外にあり得ないのです。
第五の反論:「大乗経典に描かれる莫大な群衆や神話的描写は、歴史的事実と矛盾する」
大乗経典の説法の座(霊鷲山など)に物理的に収容不可能な群衆が描かれていることを捉えて偽書と断じるのは、「大乗経典を単なる歴史記録(ルポルタージュ)として読もうとする」カテゴリーエラーです。大乗経典は教理の普遍性を時空を超えて伝えるための文学的表現であり、その非歴史的な描写は、祖師たちによる「これは表層的な歴史書ではない」という意図的な宣言と考えられるのです。歴史的矛盾を指摘することは、大乗経典の本来の目的を見誤ったものです。
第六の反論:「スッタニパータの空と大乗の空は意味が違う。同一視するのは意味論的シフトを無視したアナクロニズム(時代錯誤)であり、飛躍だ」
近代の仏教学者や上座部側の論者からは、「初期経典の『空』は単なる心理的な無我や離欲(我空)にすぎず、大乗の『空』は存在論的な無自性(法空)へと後世になって拡張されたものである。数百年の歴史の中で言葉の意味が自然に拡張(進化)したという意味論的シフトを無視し、同じ単語を用いているからといって教理を最古層に遡らせるのは時代錯誤である」との批判がなされるかもしれません。しかし、この批判は仏教史の歴史的実態を取り違えています。批判者は、一般社会における自然な言語の変遷を、「仏教サンガ」という極めて教理に厳密な集団に適用しています。教理の細部を巡って教団が二十に分裂するほど熾烈な論争を繰り広げた集団において、「空」という究極の教理用語の意味が、誰にも気づかれることなく自然に別の意味へと拡張されてしまったなどということは、およそあり得ないことと考えられます。従って、現存する最古の『スッタニパータ』に記されている通り、歴史上の釈尊が説いた「空」や「離欲すら貪らない」という境地は、文字通り、一切の執着や既存の枠組みを根底から打ち破る「一切皆空」と解するべきでしょう。しかし釈尊の入滅後、上座部系統の出家者たちが、この教えをアビダルマ(対法)という哲学的な枠組みの中に押し込め、後退させてしまったのです。その最たるものが、「法空」と「我空」の破壊です。例えば、現代の南伝仏教の源流となった分別説部(Vibhajjavāda)は、究極的な構成要素である「色・心・心所・涅槃」の四法には「自性(sabhāva:固有の実体)」があるとして、明確に「法空」を退けました。さらには、同じく上座部系統の有力な部派であった犢子部(とくしぶ)や、その分派である正量部(しょうりょうぶ)に至っては、「補特伽羅(プドガラ)」という輪廻の主体となる実体的な要素の存在を公式に認定し、「我空(無我)」すら完全には認めなかったのです。「法空」を否定する分別説部と、「我空」すら妥協した犢子部・正量部。これが上座部系統の教理史の現実です。この後退の歴史を客観的に見据えた時、「上座部こそが釈尊自身の教えに忠実な正統派である」などと、どうして主張できるのでしょうか。龍樹菩薩をはじめとする大乗の祖師たちが『中論』などで論争を展開したのは、新しい「空」の教えを発明して広めるためではありません。「自性」や「プドガラ」などの教理を創作して釈尊の教えから後退してしまった上座部(小乗)の教理に対する強力な破折であり、最古層の『スッタニパータ』が明確に説いていま一切皆空を、仏教の本流へと奪還するためであったのです。
最終章:「如是我聞」の解釈と信
「如是我聞(かくのごとく、われ聞けり)」という経典冒頭の定型句に関し、一部の上座部系統の原理主義的な実践者たちは、次のように主張して大乗経典を非難します。「大乗経典は阿含経典と同じく『如是我聞』と記述しているが、後世の創作なのだからこれは明らかな嘘である。釈尊は妄語(嘘)を厳禁している。釈尊の言葉でないものを、あたかも直接聞いたかのように偽装する大乗経典は、非仏教徒によって捏造された偽書としか考えられない」と。このような表層的な主張に対する私たちの反論は明白です。
第一に、すでに論証した通り、第一結集によって編纂された阿含経典群ですら、釈尊の直弟子(プラーナ尊者ら)から見れば「釈尊の直説そのままではない」と評価されていました。さらに『相応部経典』の高度に定型化された反復様式を見れば、それが第一結集において人為的に編集・創作されたテキストであることは疑いようがありません。つまり、阿含経典の冒頭に冠された「如是我聞」でさえも、現代の録音機のように「釈尊の言葉を逐語的に記録した」という意味など全く持っていないのです。
第二に、「如是我聞」とは、まさに「是(かく)の如く」とあるように、「釈尊の教えの核心にはこのような趣旨のものがあった」という意味であり、決して歴史上の釈尊の一言半句をそのまま再現したという表明ではありません。原始の阿含経典以来ずっと、「如是我聞」という言葉は、そこに記された教えが「釈尊の正当な法統に連なるものであること」を宣言する定型句(いわば正統性の証明印)として機能してきたのです。そうであるならば、大乗経典を構成している菩薩乗の教えこそが歴史上の釈尊の教えの真髄(特別の訓練法)であると信仰的にも歴史学的にも確信する立場からすれば、大乗経典の冒頭に掲げられた「如是我聞」もまた、一切の偽りのない、まさに真実の言葉であると断言できます。
「大乗経典が説く菩薩乗の教えは、歴史上の釈尊の金口に直接由来するものである」
この確固たる信仰は、日本、インド、チベット、中国の大乗仏教の祖師方すべてに共通する絶対の土台であったはずです。なぜなら、この根本的な起源を疑いながら、大乗仏教に対する真に確固たる帰依を持ち、人生を懸けた菩薩行を為すことなど、およそ不可能だからです。それにもかかわらず、現代の仏教徒である私たちは、近代の歴史学とパーリ至上主義がもたらした「大乗非仏説」という見解に内心の動揺を抱えたまま、この問題に対する自らの考えを明確にせず、あやふやな態度のまま大乗仏教の実践に入ってしまっているように感じます。この問題に対する論理的で確固たる見解を持たなければ、大乗仏教の実践の土台が固まることはありません。それは地盤の弱い砂の上に建てられた建築物のように、いざという人生の危機に直面した際、いつでも崩壊する危険に晒されています。その脆弱な土台(疑い)を完全に打ち砕き、強靭な実践の地盤を再構築すること。それが、私がこの小論を作成した最大の理由です。
最後に、八宗の祖と称えられる大乗仏教最大の祖師、龍樹菩薩の著とされる『大智度論』から、締めくくりにふさわしい有名な一節を引用して終わりたいと思います。
問うて曰く、諸の仏の経は、何を以っての故にか、初めに如是の語を称うる。答えて曰く、仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。如是の義とは、即ちこれ信なり。若し人、心中に信有りて、清浄なれば、是の人は、能く仏法に入る。信ぜざる者の言わく、『是の事は、是の如くならず。』と。是れ不信の相なり。信者は『是の事は是の如し』と言う。(大智度論摩訶般若波羅密初品如是我聞一時釈論第二)
南無大恩教主釈迦牟尼仏

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